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東京へ ともに歩む

毎日新聞

自らを成長させてくれたオリンピックが、東京で開かれる。競泳陣らの活躍を楽しみにしているという岩崎さん=根岸基弘撮影

東京・わたし

一番幸せだった五輪 成長させてくれた五輪 バルセロナ競泳“金”・岩崎恭子さん

 1992年のバルセロナオリンピック競泳女子200メートル平泳ぎで金メダルに輝いた岩崎恭子さん(41)。14歳での偉業達成は「今まで生きてきた中で一番幸せです」との名言とともに脚光を浴びましたが、帰国後は成績不振や中傷に悩みました。「オリンピックは私を成長させてくれた」。たどりついた境地までの道のりとこれからについて聞きました。【聞き手・柳沢亮】

    競泳女子200メートル平泳ぎ決勝での岩崎恭子さん(中央)の泳ぎ。当時の世界記録保持者、米国のアニタ・ノール選手(手前)を抑えて2分26秒65の五輪新・日本新記録(当時)で優勝した=スペイン・バルセロナで1992年7月27日、伊藤俊文撮影

     ――決勝レースは逆転優勝でした。

     ◆最初のターンは5位でした。レースを最初から見ていたら、まさか私が優勝すると思いませんよね。後半に強いタイプでしたが、(当時の世界記録保持者のアニタ・ノール=米国=を)抜いたのは最後の5メートルでしょうね。

     ――会場の雰囲気はいかがでしたか。

     ◆バルセロナ以前のオリンピックは、小学生だったので88年ソウルの鈴木大地さん(競泳男子背泳ぎ100メートル金メダル)しか知りません。今のようにスポーツ選手の露出が多い時代ではなく、オリンピックの雰囲気も現場で初めて知りました。忘れられないのは、実際の会場はすり鉢状で、床から地響きのように歓声が湧いてきたことです。不思議でした。レースの約2週間前に観客のいない会場を見ましたが、ボランティアのスペイン人が自分の持ち場でゆったりと選手を眺め、プールには太陽がさんさんと降り注ぎ、陽気な雰囲気でした。そのとき、プールが小さく感じたのです。調子が良いとそう見えるので、コンディションは良かったのだと思います。

     ――世界の他の選手の印象は。

     ◆なぜ私が、ベストタイムで6秒くらい速いノールと予選から隣で泳ぐのかと驚きましたが、ベストタイムが離れている分、自分の泳ぎをしようと思えました。だからこそ結果が良かったのだと思います。彼女は前半から飛ばすタイプ。後半タイプの私は、惑わされずに自分のペースを崩されないように心がけ、ペース配分をきちんと守ろうと泳いだら、100分の1秒差の2位! ノールも「この子誰だ?」と思ったでしょうね。

     ――決勝まではどのように過ごしたのでしょう。

     ◆選手村に戻っておにぎりが三つか四つ入ったお弁当を友達の分まで食べました。きっと気持ちが舞い上がっていたからかもしれません。興奮と緊張から寝られませんでしたが1、2時間、部屋で体を休めました。そして、決勝前の集合場所へ。予選では目もくれなかったノールが「グッドラック」と話しかけてきたことで、「私、世界記録保持者に意識されているんだ」とうれしかったこともよく覚えています。

     ――家族やコーチからの助言はありましたか。

     ◆金メダルを取りたいという気持ちは全くありませんでしたが、予選後に当時の鈴木陽二ヘッドコーチから「恭子ちゃん、もう一回泳ぐからね」と助言されたとき、ハッとしました。予選をいいタイムで泳ぎ、幸せいっぱいで、頑張ったからもういいだろうという顔をしていたのでしょうね。鈴木コーチに見破られていました。私は予選と同じように泳ぐことを心がけました。それが良い結果につながったと思います。

     ――優勝後の「今まで生きてきた中で一番幸せです」は、流行語にもなりました。レース後の心境を詳しく教えてください。

     ◆その時の気持ちが素直に出た言葉ですので、その言葉の通りの心境でした。例えば、(競泳平泳ぎの)北島康介さんのように耳目を引きつける選手は、型にはまらない答えをしてくれます。訓練して想定したコメントをするのも良いですが、素直な言葉が人の心を動かすのではないかなと。

     ――帰国してからの反響は大変だったと聞いています。

     当時、ストーカーという言葉はありませんでしたが、よく自宅前に知らない人がいました。電話帳があった時代なので、不審な電話が自宅にかかってきたこともあります。姉は(世間から)「岩崎恭子さんのお姉さん」と呼ばれ、人格が無くなったと思ったそうです。私自身、周囲の変化に心の成長が追いつかず、なぜ私がこんな目に遭わなければいけないのかと、水泳に対する気持ちが薄れていった2年間でした。

     それでも、家庭では不満を吐き出せたのが唯一良かったです。私がメダルを取ったから悲惨な環境になってしまったとの感情と、私のせいではないとの感情と、葛藤がありましたが、家族は私を受け止めてくれました。とても感謝しています。

     ――それでも96年のアトランタ大会を目指しましたね。

     ◆世界選手権とアジア大会で日本代表になれなかった94年のことです。練習はしていましたが、身が入らない。自覚していましたが、それを認めたくない。認めたくないからこそ試合に出て負け、ショックを受ける悪循環が続いていました。

     日本代表に入ることができず、夏にカリフォルニア(米国)に遠征に行きました。そこは、中学1年生の伸び盛りで初めて行った海外遠征の地です。当時は急成長した時期で、何もかもが楽しく、米国文化も格好良く見えた。純粋にとにかく速く泳ぎたくて、先輩の練習を水中に潜って見ていました。同じ場所に行ったら、その情景が思い出されました。久しぶりに日本を出て余裕ができ、バルセロナからの2年間を振り返ることができました。私ばかり(つらい生活をしている)……と思いながら生活していることに恥ずかしくなったのです。

     そのとき、全く同じ泳ぎは一度たりともできないのに、バルセロナと同じように泳ぐ感覚だけを求めていることに気がつきました。バルセロナに私自身が執着して、自分で苦しめていました。過去にとらわれてはいけないと気がついたとき、アトランタを目指す決心ができました。悩みながらでも前に進んだほうがいいと思えたのです。

     ――しかし、バルセロナと同じ種目で出場したアトランタは10位でした。

     ◆競技者は良いパフォーマンスをするのが使命ですから、その点ではダメでした。ですが、4年間の中で心の成長ができた満足感がありました。スポーツはいくら努力してもかなわないことがあります。思い通りの結果にならなかったときにどう自分の中で消化するかも大切です。選手として結果を残すことはできませんでしたが、バルセロナからの4年間を考えると、私自身はよく頑張れたと思えたのです。オリンピックの怖さを知ったと同時に、勝負することはもちろんですが、そこまでの過程にも大きな価値があることを知りました。

     ――金メダルを取ったバルセロナと満足感のあったアトランタ、どちらが良い思い出でしょうか。

     ◆比べていませんし、比べられません。バルセロナがなかったらアトランタもありません。4年間の過程もなかったのですから。

    栃木県上三川町の温水プールで指導する岩崎恭子さん(中央)。全国の子どもたちに水泳の楽しさを教えている=2008年6月1日、佐野信夫撮影

     ――2回のオリンピックを経験した岩崎さんが、東京大会を目指す後輩に伝えたいことはありますか。

     ◆オリンピックを目指している選手は、良い成績を出したいと日々努力していると思いますが、後悔のないように過ごしてほしいです。私は今、講演活動や水泳指導などをしています。指導することで喜んでもらえたり、私がきっかけで水泳を始める子もいると聞いたりすると、うれしく思います。そうした役目を果たしたいので、たくさんの方にスポーツをする意味や楽しさを感じていただける活動をしていきたいです。

     ――東京大会や水泳界に期待することは。

     ◆オリンピックやパラリンピックは、選手がすべてをかける戦いだからこそ感動がある。その姿をとにかく見て、応援してほしいと思います。

     水泳では瀬戸大也選手、萩野公介選手に期待しています。2人で水泳界を引っ張ってきてくれたから。若い世代も育ってきていますよ。若手では自由形の吉田啓祐選手(19)です。ひょうひょうとして、彼は見ていておもしろいなと感じます。若い世代と言っても、私がバルセロナオリンピックに出たときは、現在の吉田選手の年齢が日本競泳女子チームの最年長でしたね。

     ――選手の寿命が延びたのでしょうか。

     ◆社会人になっても競技を続けられる環境になったことが大きいのではないでしょうか。私たちの時代は、競技だけで生活ができないので卒業後は競技を引退する選手がほとんどでした。競技環境が整ってきたこともあります。一方で、日本水泳連盟はジュニア強化にも注力しており、東京大会が決まる以前から小学生の強化などは続けていますので、そこを継続していくことも重要だと考えています。

    インタビューに答える岩崎恭子さん=東京都中央区で2019年11月21日、根岸基弘撮影

     ――最後に、オリンピックを一言で表すとしたら。

     ◆私のことで言えば「成長させてくれたもの」です。社会全体では「選手たちの努力が多くの人に影響を与えているもの」だと思います。

    いわさき・きょうこ

     1978年7月生まれ、静岡県沼津市出身。姉の影響で5歳から水泳を始めた。92年バルセロナオリンピック競泳女子200メートル平泳ぎで、日本人最年少の14歳6日で金メダルを獲得し、レース直後のインタビューで「今まで生きてきた中で一番幸せです」と語った。96年アトランタオリンピックの同種目に出場したが、10位。20歳で引退し、現在はコメンテーターや講演、水泳指導員として活躍する。日大卒。1児の母。

    柳沢亮

    毎日新聞オリンピック・パラリンピック室員。1990年埼玉県生まれ。2013年入社後、新潟支局、東京経済部を経て19年5月から現職。高校時代は野球部に所属し、本塁打数は通算1本(非公式)。草野球の試合にいつ呼ばれてもいいように定期的にグラブを磨いているが、いまだ出番はない。最近の楽しみは、相思相愛の長男と近所の児童館で遊ぶこと。