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毎日新聞

1932年ロサンゼルス五輪馬術競技に出場した城戸俊三選手(左端)と西竹一選手(右端)ら=同年8月撮影

オリパラこぼれ話

1932年ロサンゼルス五輪馬術 「競技よりも愛馬」に称賛

 馬体は発汗し呼吸が荒い。このままでは命に危険を及ぼす――。1932年ロサンゼルス五輪の馬術競技の総合馬術でゴールを前にして城戸俊三選手は、馬の体調をいたわりレースを取りやめ、失権となった。同競技では障害飛越で西竹一(たけいち)選手が金メダルを獲得し、活躍が大々的に報道されたが、城戸選手の愛馬を思いやる行動も多くの馬術ファンが称賛した。

    競技よりも愛馬を思いやる行動で称賛された城戸俊三氏=1957年撮影

     「日本体育協会・日本オリンピック委員会100年史」などによると、城戸選手は陸軍騎兵学校の教官で馬術日本チームの主将を務めていた。総合馬術は3日間にわたり、調教やクロスカントリーでの持久力などを競った。城戸選手は愛馬「久軍(きゅうぐん)号」とともに出場していた。アクシデントが起きたのは2日目のクロスカントリー中だった。走行距離約32キロのコース中にある障害物を越えてゴールする過酷なレース。ゴールまで残り約2キロ地点で、障害物を前に城戸選手は久軍号の異変に気付いた。馬体全身に多くの汗をかき、急に呼吸が荒くなり、いかにも苦しそうな仕草を見せた。ムチを打ってゴールを目指すこともできたがレースを終える決断をした。下馬した城戸選手の肩に顔をうずめる久軍号の姿に審査員ももらい泣きしたという。

     城戸選手は別の馬で出場する予定だったが故障により、4年前のアムステルダム五輪の総合馬術でともに戦った久軍号に再騎乗した。久軍号は人間でいえば60歳ほどに当たる19歳の高齢馬で予備馬だったという。当時の東京日日新聞(現毎日新聞)号外は「疲労した愛馬をいたはつて(いたわって)棄権」と報じ、この模様が地元紙に掲載されたことなどを紹介した。

     城戸選手の行為に感動したアメリカ人道協会は、銅製の記念碑をつくり、愛馬精神をたたえた。64年の東京五輪を機に記念碑は日本に渡り、現在、日本オリンピックミュージアム(東京都新宿区)で展示されている。

     城戸選手は宮城県生まれ。ロサンゼルス五輪後は34年から46年まで旧宮内省に勤務し、昭和天皇や皇太子さま(現上皇)らの乗馬指導を行った。また、馬術関係団体の役員を歴任し、日本馬術界に貢献した。86年10月に97歳で亡くなった。【関根浩一】

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。