メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ALL FOR 2020

東京へ ともに歩む

毎日新聞

1996年アトランタ五輪の男子サッカー1次リーグで優勝候補のブラジルを破る大金星をあげて喜ぶ日本代表チーム

オリパラこぼれ話

五輪の選手出場資格 プロ、アマチュアで悲喜

1992年バルセロナ五輪の男子バスケットボール決勝でシュートをする米国のマイケル・ジョーダン選手(左)

 米国男子バスケットボール界スーパースターのマジック・ジョンソン選手の華麗なパスからマイケル・ジョーダン選手が豪快なダンクシュートを決めると、会場のファンは熱狂した。1992年バルセロナ五輪の男子バスケットボール米国チームは、米プロバスケットボールNBA所属の選手がほとんどを占め「ドリームチーム」と呼ばれた。88年ソウル五輪から一部の競技でプロ選手の出場が認められて以降、最も注目された代表チームだ。試合会場は多くのファンで埋め尽くされ、高度なプレーのたびに歓喜に沸いた。

     過去の毎日新聞などによると、米国バスケットボールチームはソウル五輪で米国史上最低の銅メダルに終わった。学生中心のチームだった。バスケットボール発祥の地の威信をかけて編成されたのがドリームチームだ。バルセロナ五輪でバスケットボールのプロ選手の参加が解禁されたのがきっかけだった。予選からの8試合はすべて100点を超える得点を挙げ、圧倒的な強さで金メダルを獲得した。

     国際オリンピック委員会(IOC)は74年まで、五輪憲章で出場資格をアマチュア選手と規定。金銭的報酬を受けている選手は「アマチュアではない」と参加を認めていなかった。しかし、旧ソ連などが国家の援助で育成する「ステート・アマ」や企業に所属して練習を積む「企業アマ」などの選手が台頭した。アマチュアの定義が複雑になり、IOCは74年に五輪憲章の出場資格から「アマチュア」という言葉を削除した。IOCは各国際競技団体に参加資格の判断を委ねてきたが、夏季大会では88年ソウル五輪でサッカー、馬術などの競技(一部条件付き)へのプロ選手参加を正式に認めたのを皮切りにプロ参加の競技を増やした。冬季大会は同年カルガリー五輪からだ。

    1912年ストックホルム五輪の陸上五種・十種競技で金メダルを獲得したジム・ソープ選手=UPI

     日本もプロ選手を五輪に送り込んだ。日本サッカー史に刻まれている96年アトランタ五輪の男子サッカーチームは、68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得して以来、28年ぶりの出場だった。1次リーグ初戦で日本は当時Jリーグ所属の中田英寿選手や前園真聖選手、城彰二選手らを擁して優勝候補のブラジルを1-0で破る大金星をあげた。その試合は会場がある都市名から「マイアミの奇跡」として称され、世界を驚かせた。

     一方、アマチュアの参加資格を巡っては、五輪の長い歴史の中で不幸な出来事も起きている。12年ストックホルム五輪。米国代表でネーティブアメリカンの子孫だった24歳のジム・ソープ選手は、陸上の十種競技と五種競技で金メダルに輝いた。両競技とも多種目を行い、総合得点を競う過酷なレースで強靱(きょうじん)な肉体と身体能力が求められる。特に、十種競技は100メートルや走り幅跳び、砲丸投げ、走り高跳び、円盤投げ、1500メートルなど、ほとんどの陸上種目をこなさなければならず、制した選手は「キング・オブ・アスリート」と呼ばれる。

     しかし、翌年の新聞報道でソープ選手が五輪出場前、野球のマイナーリーグの選手として月給の報酬を受けていたことが発覚。アマチュア規定違反と見なされ、金メダルをはく奪された。夏休み期間中に、シーズンオフのトレーニングと小遣い稼ぎを目的とする大学生選手を、マイナー球団が雇うのは珍しいことではなく、そのうちの一人がソープ選手だった。ソープ選手はその後、野球の大リーグ選手に転向。またプロフットボール選手としても活躍し、米プロフットボールNFLの前身のアメリカン・プロフットボール協会の初代会長を務めた。49年のAP通信の「20世紀前半の最高のスポーツ選手」を選ぶ記者投票で第1位になったが、53年3月に64歳で死去した。それから四半世紀、79年に米国議会が名誉回復の決議を採択するなどの後押しもあり、IOCは82年に復権を認め、記録が戻された。ソープ選手が金メダルで脚光を浴びてから70年もの長い年月が流れていた。【関根浩一】

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。