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村上春樹をめぐるメモらんだむ

新作短編「品川猿の告白」 加藤典洋さんならどう読むか

 2019年12月の朗読イベントでの「予告」通り、村上春樹さんの新作短編「品川猿の告白」が文芸誌「文学界」20年2月号に発表された。連作短編「一人称単数」の「その7」である。作品の末尾に目を凝らしたが、通常の掲載作品と同様に「了」と記されているだけで、連作がこれで完全に終わったのかどうかは明確にされていない。でも分量の面からは、7編で十分に一冊の本になるだけの長さに達しているから、遠くない将来に短編集が出るのは間違いないだろう。いや、読者としてはそう期待したい。これまでのパターンでは単行本化に際して書き下ろしが1編加えられることも多かったので、今回もそうなる可能性はあるが、タイトルがどうなるかを含めて――「一人称単数」は暫定的なものに思える――これ以上の臆測は控えよう。

 「品川猿の告白」の内容は、村上さんが朗読した通りのものだった。ただ、あの場で聞いたのは相当短縮されたバージョンのはずなのに、活字になった本編を読んでも、どこが削られていたのか、あまりよく分からない。つまり「エッセンスは残して、うまく削っていた」わけで、書いた本人が短縮したのだから当然といえば当然なのだが、手品を見せられたような気がするのは筆者だけか。もう一つ(困ったことに?)、活字を目で追っている間、猿のせりふの部分になると、イベントで声色を変えて読んでいた作家の声がよみがえり、それとともに笑いがこみ上げてどうしようもなかった。いわば、純粋に一編のテキストとして読むことができなくなっているのだ。

 「品川猿の告白」は、前回も触れたように、15年前に刊行された短編集「東京奇譚(きたん)集」に書き下ろしで収められた「品川猿」の続編である。したがって、村上作品の読者ならば、両作を比較してみたくなるだろう。筆者もさっそく「品川猿」を再読したが、そのうえで、まず参照しようと考えたのが加藤典洋さんの長編評論「村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011」である。文芸評論家の加藤さんは1948年生まれで、作家と同じ団塊世代に当たるというのみならず、同世代では初期から最も丁寧に村上作品を読み込んできた「伴走者」と見られている。惜しくも病気のため19年5月に亡くなった。同書は11年刊行だが、没後に上・下巻のちくま学芸文庫版が出版された。

 原著刊行時点で80編に上った村上さんの短編小説、それも英語に翻訳された作品に焦点を当てることを通し、長編も含めた作品世界の全体像を解き明かそうとした意欲的な本だ。前提として、加藤さんには既に「村上春樹イエローページ」という長編小説を詳細に分析した仕事があり、今度は短編の世界を踏査しようという明確な意図のもと、大学で英語による講義をおこない、それを日本語でまとめた――という成り立ちからして斬新である。この中では、加藤さん独自の分類による初期・前期・中期・後期にわたる、すべての時期の短編を検討しているが、特に14編を綿密に論じている。その最後に取り上げたのが、11年時点では最新の短編だった「品川猿」なのだ(文庫版では下巻)。

 「品川猿」の主人公は東京の品川区に住む26歳の女性で、1年前から自分の名前がふとした時に急に思い出せなくなるという奇妙な症状になる。そこで、区役所に新しくできた「心の悩み相談室」を訪れ、40代後半の女性カウンセラーに出会う。このカウンセラーは、主人公から家庭環境や成育歴などを聞き取っていき、その中から「名前忘れ」の原因を見いだす。ついに名前を「盗み出した犯人」を突き止めるが、驚くことに、それは「地下にすむ」一匹の猿だった、というのが大まかな筋だ。加藤さんは、実に丹念な読み込みによって、この短編の「カウンセリング小説」としての、またエドガー・アラン・ポーばりの「探偵小説」的な特徴を明らかにしていく。カウンセラーのモデルとして、村上さんが信頼し、…

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大井浩一

1987年入社。東京学芸部編集委員。1996年から東京と大阪の学芸部で主に文芸・論壇を担当。村上春樹さんの取材は97年から続けている。著書に「批評の熱度 体験的吉本隆明論」(勁草書房)、共編書に「2100年へのパラダイム・シフト」(作品社)などがある。

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