「古事記」「日本書紀」同時期登場の謎(上) 敗者の歴史を語る「古事記」
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日本国最初の正史「日本書紀」は720(養老4)年の完成なので、今年で1300年になる。膨大な研究があるが、今も謎が多い。最たるものが、もう一つの歴史書「古事記」がほぼ同時期につくられたことだ。
古事記は712(和銅5)年の成立。ともに天武天皇の意向で編さんされたとされるが、両書には違いも多く、一人の天皇が意図した歴史書としては不可解極まる。
この謎に「古事記は敗れた側の歴史を語る。勝者(天皇側)の日本書紀とは成り立ちが違う」と答えるのが、三浦佑之(すけゆき)・千葉大名誉教授(古代文学)の新刊「出雲神話論」(講談社)である。 【伊藤和史】
ヤマトによる全国制圧前の列島の姿をほうふつ
両書とも大筋では、天上の神々の世界、高天原(たかまのはら)を主宰するアマテラスの子孫が日本の国土を治める物語に収束していく。しかし、そのプロセスや描写ぶりは大いに異なる。その代表が本書のテーマ、出雲神話である。
出雲神話とは、高天原を追放されたアマテラスの弟スサノオや、その子孫のオオクニヌシが出雲を舞台に活躍する物語。有名なヤマタノオロチやイナバの白うさぎの話が含まれ、オオクニヌシが地上世界の国造りを果たす様子が描かれる。
古事記では神話の3分の1ほども出雲神話が占める。ところが、日本書紀の本文はごく簡単に触れるだけだ。オオクニヌシの国の支配権が高天原に移ること(国譲り)を正統とする点は両書で共通するが、書紀本文は国造りのプロセスなど目障りだと言わんばかり。
古事記は違う。「読んでいると、日本海文化のネットワークが浮かび上がってきます」と三浦氏は話す。ヤマト中心史観の周縁にある出雲と北九州、北陸、諏訪、さらに木の国(紀伊)とのつながり。ヤマトによる全国制圧前の列島の姿をほうふつとさせるという。
滅びの物語を紡いだ語り部
ところが、古事記の致命的な読み違いがあるというのだ。その象徴が国譲り。よくある読み方では、国を譲る代償に、高天原がオオクニヌシの住居となる高大な宮殿を建てることになっている。出雲大社の創建伝承とされる重要シーンだ。
しかし、大社創建はヤマトではなく出雲側が行った、というのが三浦説の要点の一つ。「オオクニヌシは自ら建て、住み続けるための修繕を要求した。出雲には弥生時代から、高い建物が建っていたことは考古学的に確認できる。ヤマトに建ててもらわなくてもいいんです」。鳥取県米子市の稲吉角田遺跡から出土した弥生土器に高層建築を思わせる線刻画があり、論拠の一つという。
ただ、そうした独自の文化を誇った列島の各地域も、やがてヤマトに制圧される。彼ら敗者の歴史を語ったのが古事記であり、中でもヤマトとの対立が抜きんでて激しかった出雲が敗者の象徴として入念に神話に描かれた、と考えるわけだ。
律令国家の論理を支える日本書紀とは全く違う歴史観をもつ書を誰がつくったのか。個人の特定は難しいそうだが、王権周辺の語り部の存在が想定されている。ヤマトの列島制圧を受けて、各地から中央に集まってきた歴史や伝承を素材に滅びの物語を紡ぐ人々。
「語りとはそういうもの。語り部は生きた人間に向かって語るより、死者に向かって語るのです。琵琶法師が『平家物語』を語ったように」とも三浦氏は話す。「神話はもちろん歴史そのものではないが、現状のように古事記が誤読されたり、記紀神話と平気に一括されたりしたま…
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