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“原子野の少女”だった母、何を目にしたのか? 長男が講演 「伝えてと言われたとしか…」

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被爆3日後に撮影された藤井幸子さん=広島市で1945年8月9日、国平幸男撮影

 原子野にたたずむ母は何を目にしたのか--。2019年にリニューアルされた広島市の原爆資料館本館入り口に掲げられた少女の写真。原爆投下3日後に毎日新聞記者が撮った当時10歳の藤井幸子さんの長男、哲伸さん(59)=東京都調布市=は、被爆の影響で若くして亡くなった母の体験と半生を追い続けている。25日に都内であった市民講座で、追体験から判明した事実などを語った。

母幸子さんについて話す藤井哲伸さん=東京都北区で2020年1月25日午後2時12分、山田尚弘撮影

 この日、哲伸さんは1枚のイラストを紹介した。家の玄関近くに置かれた長椅子に座るブラウス姿の女の子。被爆直前の母の姿だ。

 母は被爆の影響による骨髄がんで1977年に42歳で亡くなった。原爆投下の瞬間、爆心地の東約1・2キロの洋食店を兼ねた自宅にいて「右手をついていたら爆風が吹き込んできた」と聞いていた。

 米原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)で定期的に検査を受けていた記憶を頼りに、カルテを取り寄せて分析した。吹き込んできた爆風で、右腕を大やけどしたことが確認できた。被爆3日後の写真の服装と合わせてイラストで再現してみた。

勤務先での藤井幸子さん(1957年ごろ、22歳)=藤井哲伸さん提供

 「母は被爆前後をどう過ごしたのか。もっと母の人生を知りたいとの思いは消えなかった」。毎日新聞の国平幸男記者(09年に92歳で死去)が撮った少女が、専門家の写真鑑定などから幸子さんと判明したのは17年末。右腕を負傷した少女の写真をサイトで見た哲伸さんが「母ではないか」と名乗り出たのがきっかけだった。写真は19年春から原爆資料館本館で常設展示されているが、哲伸さんはその後も母の被爆時の状況などを調べている。

 新聞社のカメラマンに出会ったことは聞かされていなかった。撮影場所は特定できていないが、赤チンを塗った写真の姿から救護所の近くと考えられ、写真の背景には四角い耐火金庫のようなものが見える。国平記者の記録も合わせると「広島駅から原爆ドームまでの幹線道路で撮られたのでは」と推測する。

 母は30代から、がん治療で入退院を繰り返した。哲伸さんは高校の帰りに病室に通い、懸命に母の足や背中をさすったのを覚えている。「原爆さえなければ、もっと生きたのでは」との思いは今も消えない。

 25日は市民団体主催の講座に招かれ、初めて演台に立って母についての話をした。1枚の写真との出会いを振り返り「『体験を伝えて』と息子を動かしたとしか思えない」と語った。【山田尚弘】

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