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東京へ ともに歩む

毎日新聞

2008年北京オリンピックでの痛恨のエラーについて、自ら振り返ってくれた元プロ野球選手のG・G・佐藤(佐藤隆彦)さん=千葉県市川市で2020年1月27日、喜屋武真之介撮影

東京・わたし

「今でも悔しい。東京大会でやり返したいぐらい」G・G・佐藤さん

 かつてプロ野球・西武ライオンズのスラッガーとしてファンに絶大な人気を誇った「G・G・佐藤」こと佐藤隆彦さん(41)。1億円プレーヤーになったかと思えば、故障などの影響で戦力外となり、イタリアやクラブチームでプレーした後に千葉ロッテで復帰――と波瀾(はらん)万丈の野球人生を送りました。なかでも印象深いのが2008年北京オリンピックでしょう。大事な試合の大事な場面で、まさかの3度のエラーを犯し、日本代表敗退の戦犯扱いを受けました。痛恨の体験と、そこで得た教訓を語ってもらいました。【聞き手・神保忠弘】

 ――プロ4年目の07年に25本塁打をマークしてブレークし、北京オリンピックの行われた08年も前半戦は絶好調でしたね。

西武時代は豪快なバッティングとヒーローインタビューでのユニークな受け答えで、ファンから絶大な人気を誇った=2007年4月28日、ダメ押し3ランを放ったロッテ戦の試合後(スポニチ提供)

 ◆僕は07年に行われたオリンピック予選に行っていません。だから自分がオリンピックに行くとは想像もしていなかった。それが08年の6月に突然、日本代表候補に追加されて、周りからは「追加したからには(日本代表の)星野(仙一)監督は選ぶ気があるんじゃないか」と言われました。

「五輪でも大丈夫だろうと…」

 ――翌7月に正式に代表に選ばれます。

 ◆予選に出ていないので「オレが行っていいのかな」と思いましたね。

 ――オリンピックに特別な思い入れはなかったですか。

 ◆思い入れというか、オリンピックに行っても普通にプレーできると思っていました。プロ入りも、レギュラーになったのも遅かったので、毎日必死にやっていたんですよ。プレッシャーも十分にかかっていたので、「これだけ普段から一生懸命やっているのだから、オリンピックに行っても大丈夫だろう」という自信はあったんです。

 ところが実際に北京に行って、日の丸を背負って、韓国とかキューバ、アメリカと向かい合ったら、やっぱり今までにはない感覚というか、プレッシャーがありました。予選(1次リーグ)も緊張したけれど、やっぱり準決勝の雰囲気は別モノでした。国際大会、相手は韓国、負けたら終わり……いろいろなものが重なって、それまで味わったことがない緊張感でした。

 ――球場のコンディションはどうでしたか。

 ◆言い訳になりますが、だだっ広くて何もない場所に仮設で建てた球場なんです。野球のフライは、後ろの障害物と遠近感を取ると目測が定めやすいのですが、障害物が後ろに何も無いところに低いフェンスで作っているから、非常にフライが捕りにくい印象はありました。しかも準決勝の日はピーカンの雲一つない天気で、試合前から「まずい、捕りにくいな」という雰囲気はあったんです。でも言い訳ですよ。みんな同じ条件ですから。

 ――西武では右翼手だったのに、代表ではレフトを守った。その影響は。

 ◆ただでさえ緊張している時に普段と違う景色に入れられたら、不安要素が増えますよね。もっとレフトの選手に、レフトの守備をやる上で気をつけるべきポイントを聞いておけば良かったという後悔はあります。

北京オリンピック準決勝、日本-韓国戦の八回、韓国が2死一塁の場面で左翼手のG・G・佐藤選手がフライを落球し、一塁走者が生還した=北京市の五棵松野球場で2008年8月22日、山本晋撮影

「ウソでしょ?どうしちゃったの、オレ?」

 ――では具体的に、あの時のプレーを振り返ります。まず韓国との準決勝。2点リードの四回、先頭打者の左前への打球をトンネルしてしまいました。

 ◆左打者だから打球が(左翼線側に)切れていくんです。捕ったら反対側(二塁ベース方向)に投げなければいけないけれど、ボールは逆方向に切れていく。特に足の速い打者だったので、早く(二塁に)投げたくてボールから目が切れちゃった。

 ――そして八回、2点リードされて、なお2死一塁の場面で左中間のフライをグラブの土手に当てて落球するタイムリーエラー。

 ◆四回に小学生でも捕れるようなゴロをエラーした時点で、僕の中で「ウソでしょ? どうしちゃったの、オレ?」となった。そこからは「ボールが来ないでくれ」って思ったし、捕れる気がしなかった。

 ――07年はシーズン無失策だった佐藤さんでも、そうなってしまう……。

 ◆1個目のエラーで自信を失いました。2個目は心の問題が大きかった。

 ――二つ目のエラーをした時のことは。

 ◆記憶にないぐらいですね。本当に真っ白です、頭の中は。

 ――試合後はどうでしたか。

 ◆自分のオリンピックは終わった感じでした。使ってくれた監督に申し訳ないし、宮本(慎也)キャプテンはじめ金メダルを目標にしていたチームメートに申し訳なかったし、期待してくれた国民の皆さんにも申し訳ない。泣きたかったし、悔しかったし、死んでしまいたかった。

 ――準決勝の後、監督や宮本さんから何か言葉はありましたか。

 ◆「切り替えていけよ」みたいな言葉はありましたけれど、入ってこないですよ。同学年の森野(将彦)と阿部(慎之助)がフォローしてくれましたけれど、それを聞いても「本当にそう思ってるのか」って。被害妄想みたいになって。

北京オリンピック準決勝の日本-韓国戦、八回にエラーで追加点を許したG・G・佐藤選手はベンチで号泣した=北京市の五棵松野球場で2008年8月22日、山本晋撮影

浮足だった3位決定戦「戻れるなら…」

 ――ところが翌日の3位決定戦のアメリカ戦で、また先発メンバーに起用されます。これはどこで知ったんですか。

 ◆僕を使うわけがないと思っていたので(3位決定戦に向けて)何の準備もしないで寝ちゃったんです。「銅メダルを取りに行こう」と気持ちを切り替えるメンタルの強さは、あのときの僕には無かった。

 翌朝起きたら、食堂かどこかに張り出されていたスタメンに自分の名前が書いてあって「ウソでしょ! マジかよ!」って。そこからあわてて気持ちもスイッチを入れて。

 あと、前日の弱気な自分が悔しかったので、「今日は積極的に行こう」と無理やり(自分に)ムチを入れたんです。それが逆に強気になりすぎたというか……。だからこそショートに任せていいフライを強引に捕りに行って、落としてしまった。

 ――3位決定戦では3点リードの三回、先頭打者の放った遊撃後方への平凡なフライを落球。この後の失点につながりました。

 ◆このエラーが、自分の野球人生の中で一番後悔しています。準決勝は最高の準備をして臨んだので、後悔はしていません。心技体を整え、金メダルを取りに行って、力不足でエラーしたのだから仕方ない。しかし三つ目(のエラー)は準備ができていなかったので、本当に後悔しています。戻れるものなら、あそこに戻りたいですね。

 ――先発起用は「自分の失敗を取り返してこい」という星野監督の親心だったのかなと思いますけれども。

 ◆人づてですが、星野さんが「G・G・佐藤の野球人生をダメにしたくないから、オレはあいつにすぐチャンスを与えたんだ」と話していたと後から聞いて、なおさら胸が痛かったです。金メダルは逃しても、全力で銅メダルを取りに行くべきだったと、すごく後悔しています。星野監督には帰国してすぐ、直筆で「申し訳ございませんでした」と手紙を書きました。そうしたら宮本キャプテンを通じて「気にしなくていい。あなたの野球人生はこれから続くのだから、野球界のために一生懸命頑張りなさい」とのメッセージを伝えられました。

 ――試合後もつらかったと思いますが、日本に帰ってからですね、大変だったのは。

 ◆メディアからは「A級戦犯」と、だいぶバッシングされました。エラーの「E」に引っかけて「E・E・佐藤」って書かれたし、家族にも取材がいった。

 それで(ペナントレースに)戻って、西武ドームでの初戦の時に、もっとたたかれるかと思ったら、ファンの方がすごく温かくて、本当に救われました。「俺たちはお前の味方だ」というメッセージ(ボード)があって、それが「もう一回、頑張ろう」と思える(原動力の)一つでした。

 ――実際に翌09年のシーズンは、25本塁打、83打点とキャリア最高の数字を残しています。

 ◆よく「どん底からのはい上がり方を教えてくれ」と講演を頼まれるのですが、そんな方法があったらオレが教えてほしいぐらいです(笑い)。

 多分、僕一人だったら違うと思うんです。家族、妻を悲しませた。父親も母親も現地(北京)にいて、大切な家族、応援してくれる人の悲しい顔を見てしまったので、その人をもう一回、笑顔にしてあげたい、喜ばせてあげたいと。ガッカリさせたファンの方々のためにも頑張ろうと思えたからこそ、立ち直れたのかなと思います。目の前のことを一つ一つ、一生懸命やった結果、今やっと笑えるようになったというか。

 ――笑えるようになるまで、どれぐらいかかりましたか。

 ◆いや、今でも悔しいですよ。本当は東京オリンピックに出て、やり返したいですよ。それぐらいの思いはありますよ。テレビで(北京の時の)VTRが流れるたびに娘が言うんですよ。「パパ、いつ捕るの?」って。「永遠に捕らないよ」って言うんですけれど(笑い)、捕りたいですよ、できることなら。

聖火ランナー落選「トーチを落とすと思われている(笑い)」

 ――佐藤さんの中で五輪の経験はどう生き、どう苦しめられ、どう作用しましたか。

北京オリンピックの思い出を振り返るとき、思わず表情に悔しさがにじむ元プロ野球選手のG・G・佐藤(佐藤隆彦)さん=千葉県市川市で2020年1月27日、喜屋武真之介撮影

 ◆難しいですね。ただ、北京オリンピックの前に戻れて、ああいうことが起きるとわかっていて、「オリンピックに出ますか?」と聞かれたら、僕は出ると思う。嫌な出来事でしたけれども、あって良かったものだと思いますよ、今は。

 何が良かったかと言われると……。ま、有名になったから良かったんじゃないですか(笑い)。先日、たまたまお会いした野村(克也)さんに「名前を残した者が勝ちや」と言われましたよ。「あのオリンピックでは有名なのはお前だけや。みんな、星野とお前のことしか知らん。お前の勝ちや」って。心が救われましたね(笑い)。

 ――日本の野球が北京オリンピックで得た教訓は何でしょう。

 ◆僕の教訓からいくと、チームが集まってから本大会まで1カ月もなかった。そんな状態で「オリンピックで勝て」なんて、そんな甘くないですよ。早めに集合して、外国で合宿するとかしないと絆も生まれない。僕が(北京大会前に)代表でプレーしたのは、壮行試合の3試合だけですから。昨年のラグビー日本代表も、ワールドカップに向けて相当にチームを作り上げたから、ああいう結果が出たところもあると思う。いい選手を集めたからって、それだけでいいチームになるとは限らない。やっぱり計画的にオリンピックに向けてやっていかなければ。今はやっていますよね。

 ――ほかにオリンピックで感じた難しさは。

 ◆プロ野球はペナントレースなので一発勝負をやっていない。最近はクライマックスシリーズができましたが、トーナメント系の試合が少ないので、慣れていない部分は絶対にあると思います。一発勝負に向いているタイプ、向いていないタイプを、人選の段階で見極めないといけない。

 あと、国際大会で(普段は)先発の投手が中継ぎをやったり抑えをやったりしますが、あれは良くないと思う。中継ぎは中継ぎの投手から、抑えは抑えから、先発は先発からと、しっかり役割分担して選ばないと大変だと思う。僕が(北京で)レフトを守ったように、ただでさえ緊張する場面で、いつもと違う役割を持たせるのは危険性がありますよね。

 ――(北京では)ほかの選手も緊張していましたか。

 ◆稲葉(篤紀)さんとか新井(貴浩)さんとか、そうそうたるメンバーが緊張して、試合前のロッカールームで一言もしゃべらない。それを見たら、こちらも緊張してきた。ベラベラしゃべってたのは里崎(智也)さんぐらいですよ(笑い)。

 ――では現在の侍ジャパン、「稲葉ジャパン」の選手たちにアドバイスというか、一言エールを送るとすれば?

 ◆言える立場ではないけれど、なんだろうなあ……。

 ふざけて言うなら「オレよりいいエラーはしてほしくない」。このポジションは譲りたくない(笑い)。やっと乗り越えて、このポジションを得ていますから、オレよりいいエラーはやめてくれよ、と。

 やっぱり金メダルを取って、選手が喜ぶところを見たいですね。個人的な感情ですけれど、それで僕の傷も癒えると思うので。

 ――僕がテレビ局の人間なら、オリンピックの日本戦のゲスト解説とかにぜひお呼びしたいところですが、もし声がかかったら?

 ◆喜んで行きます。何かしらオリンピックに関わりたいです。ボランティアでも何でも参加したい。オリンピックの良さも知っているので。

 --「良さ」とは?

 ◆国と国との戦いは、ほかでは味わえない。ペナントレースとは全く違いますね。お互いの国歌が流れて、やっぱりシビれます。まして4年に1回ですから。

 東京大会の聖火ランナーにも応募したんですけどね。(応募理由に)「僕はいまだに傷を負っています。ここでやれれば僕の傷も癒えると思います」と書いたけれど、みごとに落選しました。聖火を落とすと思われているのかな(笑い)。

じー・じー・さとう

 本名・佐藤隆彦。元プロ野球選手。1978年8月9日、千葉県市川市生まれ。少年時代から野球を始め、中学生時代には野村沙知代さんがオーナーを務めていた「港東ムース」に所属。神奈川・桐蔭学園高、法政大、米国マイナーリーグ(1A)を経て、2003年秋のドラフト会議で西武から7巡目で指名され入団。1年目から1軍出場を果たし、07年からは3年連続で20本塁打以上を記録するなど主軸打者として活躍。08年のオールスター戦には両リーグ通じて最高得票数で出場した。11年限りで西武を退団し、イタリア・プロ野球などを経て、13年から2年間は千葉ロッテでプレー。14年限りで現役を引退、実父の経営する株式会社トラバース(住宅測量・地盤改良会社)に就職、営業マンとして活躍中。愛称の「G・G・」は中学時代に見た目が“じじくさい”という理由からつけられた。著書に「妄想のすすめ 夢をつかみとるための法則48」(ミライカナイ)。

神保忠弘

毎日新聞オリンピック・パラリンピック室委員/編集編成局編集委員。1965年神奈川県生まれ。89年入社後、小田原支局、横浜支局、運動部、大阪運動部、運動部デスク、運動部長などを経て、2019年5月から現職。学生時代は一貫して帰宅部、私生活は徹底したインドア派なのに、なぜ長くスポーツ報道に関わっているのか時々、不思議に思う。