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村上春樹をめぐるメモらんだむ

村上さんにとっての翻訳の意味とは

村上春樹さん=宮武祐希撮影

 前回に引き続いて「翻訳家・村上春樹」の話を。筆者はこれまで何度か村上さんにインタビューする機会を得たが、そのうち2度はまさに翻訳が主要なテーマだった。

 最初は2004年、村上さんが全巻を翻訳した「レイモンド・カーヴァー全集」(全8巻、中央公論新社)が完結した時(毎日新聞7月22日夕刊掲載)。2度目は08年、「これだけはやりたいと思っていた」というアメリカ文学の重要な4作、すなわちサリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(03年、白水社)▽フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」(06年、中央公論新社)▽チャンドラー「ロング・グッドバイ」(07年、早川書房)▽カポーティ「ティファニーで朝食を」(08年、新潮社)の翻訳を成し遂げたタイミングだった(同5月12日朝刊)。

 カーヴァーは1988年に50歳で死去した、現代アメリカ文学を代表する短編小説作家。日常をリアリスティックに描く作風は村上作品と全く違うが、生活の確かな手触りのある作品世界に村上さんは強くひかれ、82年から20年以上かけて全作品を単独で翻訳・刊行した。インタビューでは、84年に生前のカーヴァーに1度だけ会った時の印象や、ブルーカラー出身でアルコール依存などに苦しんだカーヴァーの人生と、自らが20代に経営したジャズ喫茶店の「肉体労働」で味わった体験を重ねつつ、「理屈じゃない、本当の生活は地べたにあるんだという目線がよく分かる」と話した。

 08年の取材では、4人の作家の作品を分析しながら、それぞれの魅力を語ってくれた。特に、フィッツジェラルド(1896~1940年)とカポーティ(1924~84年)の文体については「とにかくうまい、きれい、リズムがいい、流れる」と述べ、これと対比して自らの作品に関し「そんなに流麗な文章は僕は書かない。ただ、そういう文章の艶とかリズムとか流れを、僕はもう少しシンプルな言葉で出したいと思っている」と話した。これは、04年のインタビューでの、「僕の小説の基本的な方針」は「なるべく簡単な言葉で、なるべく深いことを語ろうというもの」という発言にも重なる。

 村上さんは、こと翻訳に関しては熱心に語ってきたし、自身の創作についてもその文脈において積極的に考え方を明らかにしてきたという印象がある。もちろん筆者の取材に対してだけではない。というより、幸いにも村上さんの翻訳論については最強の聞き手を私たち読者は持っている。言うまでもなく、日本を代表するアメリカ文学者で、翻訳家の柴田元幸さんである。なにしろ柴田さんは、村上さんにとって「翻訳業の師匠役」に当たり、「レイモンド・カーヴァー全集」翻訳でもアドバイザーを務めていて、上記のインタビュー記事の際もコメントを寄せてもらった。

 そもそも海外文学全般をよく知らない筆者にとって心強いことに、柴田さんはこれまで村上さんとの共著「翻訳夜話」(00年、文春新書)、「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(03年、同)その他で「翻訳家・村上春樹」の特徴を引き出し、翻訳文学全体の中での位置づけなどを語ってくれてきた。そして、19年5月には、14年以降の2人の対話(7本もある!)を収めた「本当の翻訳の話をしよう」(スイッチ・パブリッシング)が出た(他に柴田さんの講演「日本翻訳史 明治篇(へん)」を収録)。その「あとがき」で、村上さんは「もし僕と柴田さんとのあいだに、何かしら共通点があるとすれば、何かの加減で、我々の血液だかなんだかに『翻訳好き』という遺伝子が紛れ込んでしまったらしいというあたりだろう。(中略)いったんやり出すとなかなかやめられない。こうなると、仕事というよりは、ほとんど趣味の領域に近いかもしれない」と書いている。そこで、この本を手がかりに掘り下げてみたい。

 前提として、これらの対話と同時並行的に2人が、絶版になった世界文学の古典を新訳・復刊する企画を進めていて、それが16年から新潮文庫の「村上柴田翻訳堂」としてスタートしたという動きが背景にある。最初の二つの対話「帰れ、あの翻訳」「翻訳の不思議」は、この文脈でなされている。実際、2人が「帰れ、あの翻訳」で「復刊してほしい」作品にリストアップした中から、「村上柴田翻訳堂」では例えばマッカラーズ「結婚式のメンバー」が村上訳、サローヤン「僕の名はアラム」が柴田訳で新訳刊行され、ロス「素晴らしいアメリカ野球」(中野好夫・常盤新平訳)が復刊された。

 ここで注目したいのは、「小説に大事なのは礼儀正しさ」という18年の対話だ。これは、都市郊外に住む中産階級の生活を描いた作品で知られるジョン・チーヴァー(1912~82年)を核に、50年代のアメリカ短編小説について語り合ったもの。村上さんによると、50年代の米国ではニューヨークやロサンゼルスなどの大都市に資本が集中し、知的なカルチ…

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大井浩一

1987年入社。東京学芸部編集委員。1996年から東京と大阪の学芸部で主に文芸・論壇を担当。村上春樹さんの取材は97年から続けている。著書に「批評の熱度 体験的吉本隆明論」(勁草書房)、共編書に「2100年へのパラダイム・シフト」(作品社)などがある。

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