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的川博士の銀河教室

的川博士の銀河教室 585 日本初の衛星「おおすみ」誕生から50年(その2)

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3人の若き研究者の「計画試案」

 1955年の東京・国分寺(こくぶんじ)における「ペンシルロケット」の水平発射に始まった日本の宇宙をめざす活動は、その後、発射場を秋田や鹿児島(内之浦(うちのうら))に移しながら、ベビーロケット、カッパ(K)ロケットと徐々(じょじょ)に大型化していきました。そして60年には、高度1000キロの内側、バンアレン帯に届く観測ロケットとして、「ラムダ(L)ロケット」が立案されたのです。さらに大型の「ミュー(M)ロケット」の構想も描(えが)かれました。

 その「ラムダ」の開発が進んでいる途上(とじょう)で、東京大学の糸川英夫(いとかわひでお)教授は、日本のロケットで人工衛星を打ち上げられないかと思案し始め、助教授の秋葉(あきば)鐐二郎(りょうじろう)さん、大学院生の長友(ながとも)信人( まこと )さん、松尾(まつお)弘毅(ひろき)さんに技術的検討を指示しました。

 3人は格闘(かくとう)の末、1962年10月、記念すべき小冊子を完成させました。この日、東京・六本木(ろっぽんぎ)の東京大学生産技術研究所の一室で、3人の目の前に置かれたその冊子の表紙には、「人工衛星計画試案」という題名がつけられています(写真1)。

 糸川教授から言われたのは、「5年後にペイロード(重量)30キロの人工衛星を打ち上げるためのロケットはいかに?」というテーマでした。7月から夏の暑い盛りに突貫(とっかん)作業を行い、苦労してまとめ上げたのがこの『人工衛星計画試案』です。

 当時の日本には、ロケット誘導(ゆうどう)の技術はありません。3人が作り上げた人工衛星軌道(きどう)への投入方式は、以下のようなもので、「重力ターン方式」と呼ばれました(図)。

 ――第1段と第2段ロケットは尾翼(びよく)により空気の力で安定させる。第2段と第3段は機体をスピンさせて安定を保つ。第3段燃焼終了(しゅうりょう)・分離(ぶんり)後、第4段と衛星の結合体を、水平な姿勢に制御(せいぎょ)しておいてスピンを再び掛(か)け、放物線の頂点近くで第4段の燃焼を開始する――

 当時日本が保有していた、小さな固体燃料ロケットだけを組み合わせて人工衛星軌道を達成するという、まさに糸川教授の「金がなければ頭を使え」を地で行く知恵(ちえ)がいっぱいつまった打ち上げ方法だったのです。

 ラムダの最初の飛行は63年のラムダ2型1号機。65年にはラムダ3H型2号機が1000キロをはるかに越(こ)えました(写真2)が、その時には『人工衛星計画試案』はすでに存在したことになります。その後この計画は周囲の反響(はんきょう)を呼び、Mロケットを用いる科学衛星計画が65年に公表されました。そして、Mロケットによる衛星打ち上げの試験機として、3段式ラムダ3H型の上に4段目を載(の)せたラムダ4S型ロケットの計画も始まりました。私が大学を卒業して大学院に進学したのは、そのラムダ4S型による「重力ターン」による衛星挑戦(ちょうせん)が本格化して、最後の段階にさしかかっていた65年のことでした。


的川泰宣(まとがわやすのり)さん

 長らく日本の宇宙開発の最前線で活躍(かつやく)してきた「宇宙博士」。現在は宇宙航空研究開発機構(JAXA)の名誉(めいよ)教授。1942年生まれ。


日本宇宙少年団(YAC)

 年齢・性別問わず、宇宙に興味があればだれでも団員になれます。 http://www.yac−j.or.jp


 「的川博士の銀河教室」は、宇宙開発の歴史や宇宙に関する最新ニュースについて、的川泰宣(まとがわやすのり)さんが解説するコーナー。毎日小学生新聞で2008年10月から連載(れんさい)開始。カットのイラストは漫画家(まんがか)の松本零士(まつもとれいじ)さん。

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