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東京へ ともに歩む

毎日新聞

車いすバスケットボールの2018年世界選手権で、英国チームのメンバーと言葉を交わす神保康広さん(中央)=神保さん提供

Together

競技用車いす普及へ「東南アジア拠点構想」 車いすバスケ元選手・神保康広さん

 車いすバスケットボールのパラリンピアン、神保康広さん(49)が開発に関わった競技用車いすが、一流選手の間で少しずつ広まっている。2020年東京パラリンピックでは、神保さんが勤める車いすメーカーの松永製作所(岐阜県養老町)を公式サプライヤーに選んだ英国代表のほか、日本や韓国の一部の選手も使う見込みだ。神保さんは「国内で強豪チームが使っているのを見るのは格別うれしい」と心待ちにしている。【金子淳】

 神保さんが車いす生活になったのは、16歳のときだ。バイクで飛ばすのが好きな「やんちゃ」な少年だった。友人を降ろした帰り道、時速140キロでブロック塀に突っ込み、2階の高さまで体が飛んだ。約4カ月間の入院生活。「足の感覚がない。動かない」。夕暮れ時、病室で医師に訴えると、こう告げられた。「厳しいことを言うようだけど、車いすで生きることを覚悟してください」

 リハビリを途中で投げ出し、退院後も約1年半、自室に引きこもった。毎日テレビをつけたまま、ぼんやりと壁だけを見つめて過ごした。そんなとき、友人から車いすバスケに誘われた。

開発に関わった競技用車いすについて話す神保康広さん=東京都千代田区で2020年1月30日午後4時53分、金子淳撮影

 半ば強引に連れて行かれた体育館。そこで見たのは、車いすを自在に操りシュートを決める障害者たちだった。初めての車いすバスケ。体を動かすのはおよそ2年ぶりだった。コートを駆ける喜びや、自分が戦力にならない悔しい気持ちは、スポーツの楽しさを思い出させてくれた。

 すぐに競技にのめり込み、練習に打ち込んだ。1990年には日本代表を目指して強豪クラブチーム「千葉ホークス」に入部。92年バルセロナ大会から4大会連続でパラリンピックに出場したほか、00~02年には米国のチームでプレーした。

 転機となったのが、06年に障害者として初めて参加した国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊だ。車いすバスケの指導者としてマレーシアに派遣された。日本よりも障害者に厳しい社会。障害のため仕事や結婚ができない人たちと身近に接した。「バスケなんてやっている場合じゃないぞ」。それが第一印象だった。

 「頑張りたくても頑張りようがない」。教え子たちが抱えるそんな悩みは、車いす生活になったばかりの頃の自分自身と重なった。バスケを教えるかたわら、スポーツを機に人生を切り開いた自らの体験談を語り続けた。一つのことを頑張ればきっと自立につながるはず――。伝えたかったのは、そんな思いだ。

マレーシアの選手と言葉を交わす神保康広さん(左から2人目)=2006年、神保さん提供

 帰国後の07年、「ビジネスとして東南アジアを支援したい」と考え、松永製作所に入社した。高齢者向け車いすを中心とするメーカーだったが、「スポーツ用の車いすをつくって世界に広める」と訴え、競技用車いすの開発に参入。選手としての経験を繰り返し開発チームに伝え、乗りやすくて小回りが利く製品を生み出した。前後左右に激しく方向転換するバスケでもターンがしやすいという。12年ロンドン大会以降、試合で使ってくれるトップ選手が増えてきて、18年には英国代表チームが公式サプライヤーに選んでくれた。「スポーツでブランド力を高め、いずれアジアに進出したい」と語る。

 マレーシアのかつての教え子には、日本企業で働いたり自ら起業したりした人も出てきた。「スポーツを頑張れば自立につながる」と練習に打ち込む若い選手たちもいる。

 神保さんの夢は広がる。「途上国には修理されずに積まれている車いすがたくさんある。工場をつくって修理の技術を教えれば、障害者の雇用を生む可能性だってある」。東京パラリンピック後は東南アジアに拠点をつくり、パラスポーツや車いすの普及を通じて障害者の自立を支援するつもりだ。

金子淳

毎日新聞東京本社社会部。1980年、千葉県生まれ。2006年入社。北海道報道部、外信部、ニューデリー支局を経て18年から現職。バンクーバー冬季五輪を現地取材した。小中学校では器械体操部、高校では落語研究部に所属。趣味はインド料理を作ること。