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2020ヒバクシャ

 太平洋戦争末期の1945年8月6日と9日、米軍による核攻撃は広島と長崎を焼き尽くした。それから75年。核なき世界の実現はいつになるのか。記録報道「2020ヒバクシャ」は、被爆者の苦難に満ちた人生と、命をかけて訴えてきた反核のメッセージを伝えます。

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2020ヒバクシャ

張本勲さん 守ってきた暗黙の約束 今「お袋、語るよ あの日を」

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言葉を詰まらせながら、半生を振り返る張本勲さん=東京都内で2020年1月13日、山田尚弘撮影
言葉を詰まらせながら、半生を振り返る張本勲さん=東京都内で2020年1月13日、山田尚弘撮影

 「残して、思い出して、懐かしむ。涙ぐむ。そんな人がいるかもしれないけれど、お袋は忘れたかった。『あの日』の記憶は一切を消したかったんだろうね」

 5歳のとき広島で原爆に遭ったプロ野球評論家の張本勲さん(79)は、東京都内にある自宅のソファに深々と腰掛け、宙を仰いだ。傍らのテーブルに、家族ら5人が納まるモノクロームの写真がある。野球帽をかぶった小学生の張本さんの隣に、民族衣装のチマ・チョゴリを着た母朴順分(パク・スンブン)さん(1985年に83歳で死去)が座っていた。

 母は日本統治下の朝鮮半島に育ち、40歳を前に海を越えた。病気で夫を失い、原爆に長女を奪われ、残されたわが子3人のため働いた。国民学校高等科(現在の中学校)に通っていた長女は、張本さんにとって「色白で背が高く、自慢の姉」だったが、母は長女の写真を焼き、遺髪の一本も残さず、ただ、沈黙を貫いた。

 戦後に撮影された写真で母は3人の子どもらに囲まれ、口元に微笑をたたえている。張本さんが言った。「お袋は苦しかったでしょうね。つらい記憶を抱えながら、体一つで私たちを育てたのだから」【文・平川哲也、写真・山田尚弘】

 はりもと・いさお プロ野球評論家。5歳のとき、爆心地から東に2・3キロ離れた広島市段原新町(現南区)の自宅で被爆した。18歳で球界入りし、1981年までの23年間で日本プロ野球記録の3085安打を放った。

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 張本勲さん(79)がその半生を振り返るとき、家族は欠かせぬ登場人物となる。

戦後撮影された張本勲さんの家族ら。前列中央の母朴順分さんを、左の張本さん、右の姉小林愛子さん、後列右の兄世烈さんが囲む=張本勲さん提供
戦後撮影された張本勲さんの家族ら。前列中央の母朴順分さんを、左の張本さん、右の姉小林愛子さん、後列右の兄世烈さんが囲む=張本勲さん提供

 「お袋を中心に、それはもう、強い絆で結ばれた家族でしたよ」

 東京都内の自宅で、そう語り始めた。張勲(チャン・フン)の韓国名がある広島生まれの在日2世。母は爆風に傷つきながらもわが子を守り、戦後は身を粉にして働いた。兄は亡き父に代わり、広島を離れて野球に打ち込んだ弟に仕送りを続けた。色白で優しかった上の姉は原爆で帰らぬ人となったが、原子野をともに逃げた2番目の姉とは今も支え合う。

母の真っ赤な背

 両親が日本統治下の朝鮮半島から海を渡ったのは、1939年ごろだった。父張尊禎(チャン・サンジュン)さんは財産整理のため戻った故郷で病死し、母朴順分(パク・スンブン)さん(85年に83歳で死去)は4人の子と異境に残った。運命の45年8月6日は広島市の自宅で迎えた。家には5歳だった末っ子の張本さんに、二つ上の2番目の姉もいた。張本さんが玄関先で浴びた閃光(せんこう)に目を閉じた次の瞬間、飛び込んできた光景は母の服を伝う血だった。

 「赤いんだよ。赤かったのを覚えている」

 猛烈な爆風で自宅は倒壊し、幼い姉弟を守るように母は覆いかぶさっていた。張本さんが目を開けたとき、ガラス片が突き刺さった母の背から赤い血がにじんでいた。前後の記憶はまだら模様だが、張本さんは脳裏にその色を刻んでいた。

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弟の張本勲さんと避難した被爆直後について振り返る小林愛子さん=兵庫県加古川市で2020年1月28日、山田尚弘撮影
弟の張本勲さんと避難した被爆直後について振り返る小林愛子さん=兵庫県加古川市で2020年1月28日、山田尚弘撮影

 名刺の表には「広島原爆被爆者かたりべ」、裏には「張本勲の姉」とある。張本さんの2番目の姉、小林愛子さん(81)=兵庫県加古川市=は身を乗り出して記者に聞いた。「母のこと、『あの日』のこと、勲は何て言ってますか」。20年ほど前から小学校などで被爆証言を続けるが、姉弟の間で原爆の話題が上ることはない。

 「勲を連れ、早く逃げなさい」。あの日、上着を鮮血に染めて言った母に、国民学校(現在の小学校)に通う7歳だった小林さんは戸惑った。兄と姉は空襲に備えて家屋をまびく建物疎開などに動員されていた。母は2人の帰りを待つという。

 自宅の周辺は比治山(ひじやま)(標高71メートル)が壁となって火災こそ免れたが、爆風で倒れた木造家屋が道を塞いでいた。衣服か、肌か、判別のつかぬほど「どろどろした」人たちがいた。弟の手を引き、その一団に行き先を委ねた。

 川があった。焼けただれた人々がうめき声を上げて沈んでゆく。河原に下りて、黒ずむ水をすくい、弟のシャツに付いた母の血を洗い流した。自分の服に付いた赤い染みは乾いて異臭を放っていた。

 日暮れも近い頃、橋のたもとで見た市中心部は赤く渦を巻いていた。見知らぬ男性から真っ白な塩むすびをもらった。「おじちゃん、ありがとう」。弟が言葉を絞り出した。

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変わり果てた姉 母は泣いた

 その2日後か3日後だ。どこかのブドウ畑で再会した母は体からガラス片を抜きもせず、兄はやけどした腕にちぎった布を巻いていた。上の姉の点子(てんこ)さんはいなかった。

張本勲さんが「自慢の姉」と慕った点子さんの写真。母朴順分さんは全て焼いたが、点子さんの同級生から提供された=張本勲さん提供
張本勲さんが「自慢の姉」と慕った点子さんの写真。母朴順分さんは全て焼いたが、点子さんの同級生から提供された=張本勲さん提供

 小林さんは、弟を連れて点子さんを捜した。収容された負傷者らが異臭を放つ、学校の講堂かどこかだ。「点子姉ちゃん」の呼びかけに応じる低いうめき声が耳に届いた。姉の面影はなかった。「点子姉ちゃん」。再度尋ねると、熱線で溶けた口元から「うん」と聞こえた。母と兄の待つブドウ畑に、運んでもらった。

 母は泣いた。点子さんは「熱い、熱い」とうわ言を繰り返すばかりで、手の施しようがなかった。張本さんは小さな手でブドウの粒をもぎ、口元で搾ってやった。翌朝、母の泣き声は大きくなり、張本さんは戦後十数年もたって「あのとき、息を引き取った」と聞かされた。

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 別々の機会に、張本さんと小林さんは同じ言葉を発した。「一度も母の寝顔を見たことがない」。原爆投下の9日後、広島の戦後は始まる。母は残された3人の子を育てるため寝食を忘れて働いた。

張本勲さん(右)と兄世烈さん=張本英治さん提供
張本勲さん(右)と兄世烈さん=張本英治さん提供

 移り住んだバラック建て長屋住宅で、母はホルモン焼きの屋台を始めた。張本さんはいつも、包丁がまな板をたたく音で目を覚ました。母は広島駅前にできたヤミ市までの道のりを歩いた。小林さんが床に就いても、細々とした明かりの下で繕い物をした。

 姉弟の父親役は、年齢の離れた兄世烈さん(96年に64歳で死去)が担った。家族4人で支え合ったが、56年に張本さんは16歳で広島を離れた。母の反対を押し切り、地元の高校から大阪の野球強豪校・浪華商業高校(浪商、現大体大浪商)に移った。

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張本英治さん=広島市南区で2020年1月23日、山田尚弘撮影
張本英治さん=広島市南区で2020年1月23日、山田尚弘撮影

家族は悲しませない 

 「スパイクもユニホームもやぶれたと言って居たが、現状ではどうにもならない。早めに給料をもらって送ってやる。誰にも負けずにがんばってくれ」

 「昭和33年7月」の消印が残る手紙には、細かな字でそう書かれていた。「父の字です」。広島市南区で不動産業を営む張本さんのおい、英治さん(56)が言った。張本さんが大阪の高校で野球に打ち込んだ18歳のころ、父世烈さんが送った手紙だ。張本さんから保管を頼まれた封書や写真の束には「張本勲様」の宛名がある現金書留も交じる。

 張本さんは小学5年のとき、友人に誘われて野球を始めた。広島に遠征した巨人の選手らが利用する宿舎をのぞくと、選手たちが皿からこぼれんばかりのステーキを食べていた。「あんなものを、お袋にも食わせてやりたい」。プロを志した。

仕送り続けた父親代わりの兄

 進学した地元の高校に甲子園出場の芽がないと悟り、張本さんは願い出た。「大阪の浪商に行かせてください」。母は金銭面から渋る以上に、子どもとの別離を嫌った。世烈さんがその間を取り持った。当時25歳。タクシー運転手だった。乗務の時間を増やし、月給の半分に近い1万円を大阪の弟に仕送りし続けた。

 自身の甲子園出場はかなわなかった張本さんだが、58年にプロ野球・東映と入団契約を結んだ。新聞紙で包んだ200万円の契約金を、張本さんと世烈さんは広島まで夜汽車で運んだ。「これで家を建ててください」。封も切らずに、母に差し出した。 

 英治さんが営む店舗「ハリモトホーム」と自宅は、その契約金で建てた家の跡地近くに建つ。比治山の東側は広島市の区画整理が進み、新築の戸建てが軒を連ね往時の面影はない。英治さんは語った。「父がいなければ叔父の成功もなかった。2人が残してくれた土地で末永く生き、8月6日は仏壇に手を合わせる。それが私の務めです」

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 小林さんには目標があった。張本さんが現役23年間で樹立した日本プロ野球記録3085安打を抜く。バットではない。2017年に国連で採択された核兵器禁止条約の早期発効などを求める「ヒバクシャ国際署名」を集めた数でだ。

 役所に、会社に、「飛び込み営業」をかけた。「広島で被爆した張本勲の姉です。核兵器をなくすため署名してください」。19年12月、1年半あまりかけて集めた署名は3130を数えた。「お姉、大あっぱれじゃ」。電話口で張本さんはそう褒めたという。

家族について語る張本勲さん=東京都内で2020年1月13日、山田尚弘撮影
家族について語る張本勲さん=東京都内で2020年1月13日、山田尚弘撮影

 母は原爆で失った娘の髪一本、残さなかった。張本さんは一度、点子さんが亡くなったときの様子を尋ねた。「そんなことを聞かないの」。そう言ったまま母は沈黙した。小林さんも口にできなかった。「子どもたちを絶対に守るという強い意志を、母は貫いた。だから兄も私も、勲も、母を悲しませることは絶対にしなかった」。母の気持ちをおもんぱかり、原爆の話はしなかった。

きょうだいの約束

 1985年6月。張本さんが母危篤の報を受けた夜、東京から広島に向かう新幹線は既に終わっていた。「すぐに勲が来るよ」。病院で世烈さんと小林さんは母を励ましたが、張本さんが在来線を乗り継いで到着した翌朝、母は息をしていなかった。安らかな顔だったという。

 「耳元で言ってやりたかったんだ。あなたの息子でよかったと。産んでくれてありがとうと」。母の死から11年後、兄も病に倒れて世を去った。その後も家族の間では原爆を話さない暗黙の約束を守りながら、姉弟はめいめいに語り出した。「あの日」を私たちに伝えるために。【文・平川哲也、写真・山田尚弘】

広島・長崎の原爆被害  

 太平洋戦争末期の1945年8月、米軍が広島市と長崎市に投下した原子爆弾は爆心直下の街を3000度の高熱で焼き、一命を取り留めた人も放射線障害で傷つけた。倒壊・全焼家屋は計約7万棟、45年末までの死者は計21万人を超えたと推計されるが、確定していない。被爆者は今も忌まわしい記憶と後遺症に苦しんでいる。

 ウラン爆弾の広島原爆は8月6日午前8時15分に投下され、全壊・全焼家屋は被爆前の68%に当たる約5万2000棟に及んだ。人類史上初の核攻撃で、爆心地の半径1・2キロ圏内では、その日のうちにほぼ半数の人が息絶えた。白血球の減少など放射線の急性障害で死亡した人を含め、市人口の4割に当たる約14万人が犠牲になったとされる。

 プルトニウム爆弾の長崎原爆は8月9日午前11時2分に投下。爆心地の4キロ圏内では全家屋の3分の1を超える約1万8000棟が全焼・全半壊し、1キロ圏内にいた人は熱線でほとんどが即死した。年末までに死亡したとされる約7万4000人は市人口の3割に達する。

 厚生労働省によると、被爆者健康手帳の所持者は約14万5000人(2019年3月時点)で、平均年齢は82歳を超えた。国は原爆放射線由来で要治療の病気を原爆症とする。現行基準で審査を始めた14年から19年9月までに5767件を認定した一方、2879件の申請を却下した。

(記録報道「2020ヒバクシャ」は、毎月1回掲載予定です)

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