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賃金格差、セクハラ、非正規雇用…女性労働運動のリーダー・柚木康子さんが振り返る差別との闘い

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労働運動で培った女性たちのネットワークについて語る柚木康子さん。打ち合わせや資料作成に使う「スペースきんとう」は会社との争議の和解金を元にした基金で用意した女性たちの会議室だ=東京都文京区で2020年2月、大和田香織撮影
労働運動で培った女性たちのネットワークについて語る柚木康子さん。打ち合わせや資料作成に使う「スペースきんとう」は会社との争議の和解金を元にした基金で用意した女性たちの会議室だ=東京都文京区で2020年2月、大和田香織撮影

 パートや派遣の雇い止め、セクハラ・マタハラ、賃金差別――。職場の問題で声を上げる女性たちの中には、ほぼ常に柚木康子さん(72)の姿がある。労働組合の委員長を務めながら多くの訴訟で原告を支援し、男女賃金差別を明らかにして女性が昇格する道も切り開いてきた。正規・非正規の格差をなくす均等待遇のキャンペーンや、国連の女性差別撤廃条約に実効性を持たせる運動へと活動は広がっている。【大和田香織/医療プレミア編集部】

「普通の女の子」から「男も女も育児時間」へ

 ――1966年に外資系企業のシェル石油(現・出光興産)に入社したときは、どんな職場でしたか。

 ◆本社では女性がお茶くみをさせられることもなく、週休2日制でした。私は専門学校の秘書コースで学んだ「普通の女の子」で、「ちょっと手伝わない?」と声をかけられ、若手社員のレクリエーション活動のイメージで労働組合に入りました。

 ――会社と争うようになったのはなぜですか。

 ◆70年ごろの日本は労働運動が盛んで、シェル石油でも19年ぶりにストライキを打ちました。やがて会社の妨害が激しくなり、労組役員の切り崩しや分裂工作が始まり、72年に第2組合ができました。会社側から「組合を抜けないと昇進できない」などと言われて組合員の脱退も続きました。それで「負けるわけにはいかない」と思ったのです。

 東京都労働委員会に不当労働行為を申し立て、中央労働委員会は組合の主張を認める命令を出しましたが、会社が取り消しを求める訴訟を起こし78年、東京地裁で組合敗訴という想定外の判決が出ました。以後、強制的に配置転換された同僚を戻したり賃金差別を是正したりするため会社に働きかけ、申し立てや裁判で闘うことになりました。和解するまで40年。会社が私をこんなふうにしたのね。

 85年にシェル石油と昭和石油が合併しました。シェル石油は異動先の決定も本人と人事担当者がやりとりを重ねるなどの慣行がありましたが、合併後は、賃金制度に資格手当も導入されました。女性は資格が上がらず、男女の格差が開いていきました。組合員が減るなかで、女性もやめるわけにいきません。出産後も働き続けるため、81年に「男も女も1日2時間の育児時間」を要求しました。

 ――92年に育児休業法(当時)が施行される10年以上も前です。なぜ休業ではなく育児時間だったのですか。

 ◆私は子どもを持たなかったのですが、職場の先輩たちと話し合ううちに、「休業したら、その間に『家事・育児は妻』という役割が固定されかねない」「休むと収入も失う」と気づきました。「ならば男も含めて育児時間を」と、生後3年まで1日あたり2時間の育児時間を求めることにしました。保育園へ子どもを迎えに行く組合員の指名ストを打ったり、本人に代わり交代で迎えに行ったりすることもありました。82年3月には都心で他の労働組合といっしょに「男も女も育児時間を」と掲げてデモをしました。春闘で会社は育児休業制度を提案してきましたが、会社寄りの第2組合に花を持たせる狙いもあったようです。

 ――89年には委員長も務めました。組合活動の中で女性差別はなかったのでしょうか。

 ◆病気で委員長を退任した夫と交代し、中央執行委員になりました。男性の委員長が2人続いたあと「次は私がやろうかな」と言ったとき、女性だからと驚かれたり反対されたりはしませんでした。組合員の3分の1が女性だったこともありますが、後に現役社員の男女賃金差別の訴訟を起こすときも男性から声が上がりました。

原告女性たちに必要だった交流の場

 ――旧昭和石油の関連会社で働いてきた野崎光枝さんが定年退職後の94年、男女賃金差別の是正を求めて東京地裁に提訴したときは労組で支援しました。

 ◆遅くまで残業するなど長年会社を支えたのに、野崎さんは合併時に入社2年目の女性と同じ資格にされました。そのころ私たちの労組は社員の賃金データを入手する機会があり、組合員と女性社員は低いランクに留め置かれていることがわかりました。野崎裁判は、他社の女性とつながるきっかけにもなりました。

 ――86年に男女雇用機会均等法が施行されましたが、企業はコース別雇用を導入し、以前から働いてきた女性の多くは、低賃金で昇格の機会も限られる一般職にはり付けられました。

 ◆同じころ、野村証券、兼松、芝信用金庫、商工中金などで長く働いてきた女性たちが賃金差別の是正を求める訴訟を起こしました。原告や弁護団の交流会ができ、今も続いています。企業内に労組があっても彼女たちが支援を受けられることはほとんどなく、孤立していました。裁判は初めてで、差別を証明する記録は会社が持っていて、裁判所にどう認めさせたらよいかわからない。社内では提訴したことを非難されたりします。会社は「賃金が低いのは仕事ができないから」などと否定的なことを主張します。訴訟資料を読むだけでつらく、気分も悪くなるので、交流の場は必要でした。私は裁判の経験があったので「原告を誹謗(ひぼう)するのはどの企業も同じ。でも、仕事のことは働いてきた本人が一番わかっていて、会社側弁護士は現場を知らない。的外れなことを聞いたら3倍言い返してやればいいの」と励ましました。

「均等待遇」でつながる

 ――均等法見直しを求める動きも盛り上がりました。

◆野崎裁判の弁護士を中心に「働く女性のための弁護団」ができました。95年、国連の北京女性会議を前に、「こんな均等法のままでいいの?」と故中島通子弁護士のかけ声もあり動き出しました。派遣労働の対象業務を広げる議論も始まっていた…

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