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東京へ ともに歩む

毎日新聞

「大阪城は自分の庭のような場所」と地元への愛着を語る=東京都千代田区で2020年2月10日、柳沢亮撮影

東京・わたし

「パラリンピックで未来見えた」聖火リレーアンバサダーで大阪を走る田口亜希さん

 日本全国を巡る東京オリンピックの聖火リレーが3月26日に始まる。パラリンピック射撃元日本代表で、東京2020聖火リレー公式アンバサダーの田口亜希さん(48)は自身もランナーとして、4月に生まれ育った大阪府内を走る。無我夢中で駆け抜けた学生時代、病気の発覚、射撃との出合い、人の温かさ……。苦楽を経験した地元への熱い思いや共生社会への課題を聞いた。【聞き手・柳沢亮】

     ――4月15日に大阪府内を走ります。地元の思い出はありますか。

     ◆すごく愛着があります。私は25歳の時、病気で足を悪くしましたが、それまでは歩いていました。高校生時代の寒い時期に、有志で集まった20~30人の同級生で、和歌山城(和歌山市)から大阪城(大阪市中央区)まで80キロほど歩きました。あの頃の私たちは熱かったのですね。他校で同様の行事があることを知り、「私たちもやりたい」と先生にお願いして実現しました。

     学校の授業が終わった後に南海電鉄を使って和歌山城まで行き、出発したのは夕方。道中には豚汁など炊き出しをしてくれたり、ラーメンの屋台を呼んでくれたりした親御さんもいました。休憩できるのは赤信号の時。「信号ってこんなに変わるの早かったっけ?」と思うくらいあっという間に切り替わります。大阪城に着いたのは翌日の昼ごろで、学校ではおぜんざいが用意されていました。夕方に帰宅し、眠りから覚めたのは次の日の夕方。死んだように寝るってこういうことなんだろうなと感じました。

    シドニーで2011年に開かれたワールドカップに出場した田口亜希さん。ロンドン・パラリンピックの出場枠を勝ち取った=本人提供

     聖火リレーの地図を初めて見たとき、「ずっと歩いたルートだ」と思いました。自転車でも、車でもいろんな街に行きました。土地勘がありますし、親戚も友達ももちろんいます。病気になったのも大阪にいるときでしたので、支えてくれた方々もいる。私にとっては思い出が詰まった街。ランナーに選んでいただけたのはすごくうれしいです。

     ――大阪の雰囲気はいかがですか。

     ◆一昨年、まだ(2025年予定の)大阪万博が決まっていなかった時期に講演で東京2020大会をPRすると、「今それどころちゃうねん。万博誘致を」と言われました。決まってからは「今それどころちゃうねん。万博開くから」と(笑い)。万博はオリンピックやパラリンピックと、IT(情報技術)やAI(人工知能)など共通する面があると思います。ラグビー・ワールドカップ日本大会(19年)や東京2020大会(20年)、ワールドマスターズゲームズ(21年予定)というスポーツイベントの延長に万博もあると考えます。

     大阪に限らず、「あれ(東京2020大会)は東京のものだから」と言われるときがあります。でも、そうじゃない。それぞれの地方出身の選手が参加しています。母は大阪の人ですが、1964年の東京オリンピックのチケットをもらったそうで、新幹線に乗って観戦しに行ったことを私に今も語っているんですよ。子どもたちに限らず大人も思い出になる。そういう意味で、オリンピック・パラリンピックを身近に感じてもらいたい。その一つの手段になるのが聖火リレーだと思います。大阪に大会会場はありませんが、リレーはあります。

    聖火ランナー募集概要を発表する田口亜希さん(右)ら=東京都中央区晴海で2019年11月22日、宮本明登撮影

     ――昨年、公式アンバサダーに選ばれましたね。

     ◆アンバサダーは金メダリストだろうと勝手に思っていたので、私がなるなんて思っていませんでした。私は(金メダルを)取れていません(アテネ大会7位入賞)。野村忠宏さんは奈良県のご出身ですので、アスリートは関西人枠ですかね。でも野村さんは金メダルを3個も取っていらっしゃるので両方ですね。

     ――アンバサダーの仕事を教えてください。

     ◆小・中学校を訪問し、聖火リレーの意味やオリンピック・パラリンピックの魅力を伝えたり、子どもたちと一緒に考えたりしています。パラリンピックの採火式はオリンピックと違いギリシャではなく、イギリスで行われていることなども教えています。昨年は宮城県石巻市の中学校に行きました。子どもたちに「どんな人がランナーにふさわしいと思う?」と質問をすると、「何かに打ち込んでいる人」「夢を持っている人」と答えてくれました。私は「人の気持ちをつないでいく」というのが聖火リレーじゃないかなと思います。

     ――聖火リレーをどう楽しめばいいでしょうか。

     ◆一生懸命走っている人の応援って楽しいですよね。パラリンピックに出場して驚いたのは、みなさんが営利関係なく応援してくださることでした。お返しもできないけれど、応援してくれたり、仕事を代わってくれたり。出発前は「頑張ってきてね」、帰ってきたら「お疲れさま」。人ってすごいなと感じました。日本人だけではなく会場の声援もすごかったですし、ボランティアの人たちも応援してくれました。人を応援するってすばらしい、自分もそういう人になりたいと思いました。

     聖火リレーはこの大会に関わっていただける(イベントの)一つだと思う。きっと、関西の沿道の応援は面白そうな気がします。温かい応援をしてくださるちゃうかなと思います。

     ――聖火リレーは自治体にとってPRする絶好の機会。田口さんがPRしたいことを教えてください。

     ◆大阪って、都会も自然もある面ではすごく身近に感じられる場所です。関東は繁華街がたくさんありますが、大阪は梅田(大阪市北区)か難波(同中央区、浪速区)で凝縮されている。堺市は古墳群。大山古墳(仁徳天皇陵)は私たちにとって身近な存在です。また、私は大阪城の近くの学校に12年間通いました。自分の庭のような場所です。そういうところをみなさんに見てほしいと思います。あと、やっぱり人の温かさ。「怖い」と言われることもありますが、大阪の人はすぐ「大丈夫?」「どうしたん?」とか言ってきはる。私も大阪のことを思い出すと、温かい気持ちになります。人と人とのふれあいが表現できればうれしいと思います。

     ――射撃を始めたのはどのようないきさつからだったのでしょうか?

     ◆元々、豪華客船「飛鳥」の乗組員でした。当時の飛鳥は就航したばかりで、採用していたのは海外の客船経験者やホテル勤務者だけ。新卒採用は私の代が初めてでした。関西弁しか話せず、標準語と接客を学ぶため、東京のホテルオークラで約2カ月間の研修を受けました。

     研修中にベルガールをしていたとき、案内した男性のお客様から「客船でクレー射撃ができる船があると聞いたが、君の船はできるの?」と言われたのです。そのとき初めてクレー射撃という言葉を聞きました。日本国籍の客船ではできませんでしたが、楽しそうだなと思いました。でも、まだインターネットもなかったですし、周りに銃を持っている人もいませんでした。グアムやハワイに行ったときはやってみたいと思いましたが、時間がなかったり、値段が高かったりでやりませんでした。

     病気になった後、大阪のリハビリ病院で、同室の人と「車いすに乗っていてもできるスポーツって何だろう」と話をしたところ、バスケットボールや水泳、陸上が挙がる中で射撃も出たのです。車いす生活となった後、日本郵船の神戸支店で働くことが決まってから、一緒に病院で過ごした方に誘われて射撃の道に入りました。

    20代後半で始めた射撃の練習をする田口亜希さん=千葉県総合スポーツセンター射撃場で2012年8月(本人提供)

     ――田口さんにとってパラリンピックはどんな存在ですか。

     ◆病気で車いす生活になってから、自分には未来はないと感じていました。未来を見るのが怖かった。みんなには未来があるけど、自分は将来のことを考えてはいけないと思ったのです。未来や夢を持たなければ傷つかない。今だけを生きればいいのだと。

     ただ、私は恵まれていることに会社が仕事場を探してくれました。だから与えられたことを一生懸命やろうと決めました。車いすに乗れた、働けた、射撃を始められた、大会に出られた、海外に行けた。一つ一つがうれしかったのです。アテネ・パラリンピックの2年前、国際大会で好成績を収めたところ、監督から「パラリンピックに出られるかもしれないよ」と言われ、初めて先のことを意識しました。そこで大会までの2年間、何をすればいいのか、どんな目標を持てばいいかを考えたとき、初めて未来が見えました。未来を見ていることに自分で驚きました。

     ――パラリンピックのおかげで田口さんの未来ができたのですね。

     ◆周りから支えてもらったことが大きいと感じています。障害がある人のプレーを見て、自分と同じような障害でもできることがあると思ってもらいたい。夢や可能性が見つかるかもしれません。スポーツ選手を目指さなくてもいい。外に出るきっかけでもいいです。

     私も病気を患う25歳まで、私のいる世界が全てになってしまい、車いすの方を見ても一時的なものだと思っていました。全然動かないって、そんなことあるのって。人は、知ると想像力が出てくる。人ごとではないですが、私も知らなかった。そういう意味で、オリンピックやパラリンピックはみなさんに知っていただけるきっかけだと思うし、私たちは知ってもらえるように努力をしたい。また日本で共生社会というと、健常者が障害者をおもんぱかって助けるイメージがありますが、お互いが思いやる必要があると思います。私は助けてもらうばかりでは、なんとなく悲しい気持ちになる。あなたのために何もできないのかって。お互いに想像力を膨らませば、共生社会につながっていくと思いますね。

     ――共生社会に必要なことは何でしょうか。

     ◆障害の有無だけではなく、最近ではLGBTなど性的少数者の問題も取り上げられ始めました。今後は障害でも、LGBTでもない別の問題が顕在化してくると思います。社会環境が変わると、バリアフリーの定義も変わってきます。こうした問題についてどう対応していくのか。結局はお互いに知ることだと思います。東京2020大会に向けて進んできた共生社会への流れが止まるのが怖いですね。

     ――最近は「パラバブル」とも言われていますね。

     ◆例えば、企業によるパラアスリートの雇用も進みました。もちろんすごくうれしいことですが、バブルで終わらせたくないですね。「田口を見ていたら、段差をなくしただけで働けるんだ」と言われたこともあります。環境さえ整えば、障害のある人たちも働けると考え直すきっかけになったらいいなと思います。夢かもしれませんが、「法定雇用率」などを定めなくても(企業が障害者を雇用して)働ける、障害のある人も自分の職業に就けるというのが理想です。

    たぐち・あき

     1971年3月生まれ、大阪市出身。大学卒業後、郵船クルーズに入社。豪華客船「飛鳥」にパーサーとして勤務。25歳のときに脊髄(せきずい)の血管の病気を発症し、車いす生活となる。退院後、友人の誘いでビームライフルを始め、その後実弾を使用するライフルに転向し、アテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場した。アテネは7位、北京は8位入賞。現在は日本郵船広報グループ社会貢献チームに勤務し、東京2020聖火リレー公式アンバサダー、エンブレム選考委員、日本障害者スポーツ射撃連盟理事などを務める。

    柳沢亮

    毎日新聞オリンピック・パラリンピック室員。1990年埼玉県生まれ。2013年入社後、新潟支局、東京経済部を経て19年5月から現職。高校時代は野球部に所属し、本塁打数は通算1本(非公式)。草野球の試合にいつ呼ばれてもいいように定期的にグラブを磨いているが、いまだ出番はない。最近の楽しみは、相思相愛の長男と近所の児童館で遊ぶこと。