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戦後75年 国から切り捨てられた空襲被害者たち 国会前で補償を求め続ける理由とは

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空襲被害者救済立法を求めて活動する河合節子さん。東京大空襲で母親と2人の弟を亡くした=東京・永田町の衆院第2議員会館前で2020年2月13日、後藤由耶撮影
空襲被害者救済立法を求めて活動する河合節子さん。東京大空襲で母親と2人の弟を亡くした=東京・永田町の衆院第2議員会館前で2020年2月13日、後藤由耶撮影

 通常国会が開かれている今、東京・永田町の国会前では、さまざまな団体や個人がそれぞれの訴えをしている。拡声器を使い、耳に響く大音量の声もある。全国空襲被害者連絡協議会の河合節子さん(80)たちは、あえて肉声で訴える。「先の大戦の空襲被害者は今も補償されていませーん」「救済法を求めていま~す」。声は小さいが、内容は重い。日本の行政と司法が民間の戦争被害者たちを切り捨て、政治も救済してこなかった事実を伝えるものだ。昨年の4月から、国会会期中の毎週木曜日の正午。東京都千代田区永田町2の衆院第2議員会館前でつじ立ちを続けている。

 第二次世界大戦では日本人およそ310万人が亡くなった。日中戦争を泥沼化させた近衛文麿首相、あるいはアメリカを相手に勝てるはずがない戦争を始めた東条英機首相がそうであるように、戦争を始めた為政者のほとんどは、国民の選挙を経た政治家ではない。軍官僚や宮廷政治家らである。しかし戦争の被害は広く国民に及んだ。米軍による執拗(しつよう)な爆撃によっておよそ50万人が殺された。けが人や保護者を失った孤児、家財を焼かれた人たちを含めば、被害者はその数十倍に及ぶだろう。

軍人・軍属らの恩給は復活 民間人の補償は拒んだ政府

 河合さんはその一人。1945年3月10日の東京大空襲で母親と弟2人を殺された。

 大日本帝国の時代、軍人や軍属とその遺族らには恩給があった。しかし敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)がこれを停止させた。52年に主権を回復した政府は、この恩給を復活させた。これに基づく補償や援護は、累計60兆円に及ぶ。一方、政府は民間人への補償を拒んだ。「民間人は国と雇用関係になかったから」というのが言い分であった。

 「子どもや高齢者が、国に雇われるはずがないでしょう」。そう話すのは、安野輝子さん(80)。戦争末期、鹿児島県川内市(現薩摩川内市)で空襲に遭い、左脚の膝から下を失った。6歳になったばかりだった。「同じ人間として扱ってほしい」。洋裁で身を立てながら40年以上、国に補償を求めてきた。

 雇用関係があろうがなかろうが、為政者たちが始めた国策(=戦争)の、被害者であるという点では同じだ。「差別だ」と、民間人が思うのは自然だろう。差別を続ける国を相手に、多くの人が法廷闘争を進めた。たとえば戦争で海外での財産を失った人たちだ。しかしすべての訴訟で原告は敗訴した。

 空襲もそうだ。河合さんが参加した東京大空襲国賠訴訟、安野さんが原告代表を務めた大阪大空襲国賠訴訟とも1審と2審で原告が敗訴。それぞれ2013年、14年に最高裁で敗訴が確定した。この国の司法は、何の罪もない戦争被害者、行政が切り捨てた戦争被害者たちを救済しなかったのだ。だから河合さんや安野さんたちは、政治に望みをつないでいる。

 「受け取ってくださーい」。河合さんは支援者らとともに、国会前を通る人に被害の実態を記したリーフレットを渡そうとする。議員バッジをつけた人らが通るが、受け取る人はまばらだ。「アメリカ大使館に行ってやれ」と怒鳴る男性もいる。

 日本政府はサンフランシスコ講和条約を締結する際、戦争にまつわる賠償請求権を放棄した。国民が米国に補償を求めることは不可能だ。無責任な日本政府だけでなく、国民の無関心、無知にも河合さんたちは苦しめられてきた。

 それでも「あきらめません。自分にできることをやるだけです」と話す。

東京大空襲 母と兄弟を失った河合さん

 75年前の3月10日。300機もの米戦略爆撃機B29が東京を襲った。隅田川沿岸を焼き尽くし、およそ10万人が死んだ。当時、東京都の施設で火葬できる遺体は1日500体程度だった。10万人は到底火葬できなかったため、公園や学校、空き地などに手当たり次第埋められた。被災した児童や、囚人まで動員された。懇ろに葬られることもなく仮埋葬された人たち。死者の尊厳は守られなかった。

 生き残った人たちも苦しんだ。河合さんの家族は隅田川の東岸、深川区(現江東区)に暮らしていた。両親と長女の河合さん、3歳と1歳半の弟がいた。「下の弟は、ちゃぶ台につかまって立ち上がっていたのを覚えています」。空襲の時、5歳だった河合さんは茨城県の祖父の家に預けられていた。

 B29が魔弾をばらまいたその夜。「何時だったか覚えていませんが、大人たちが外でガヤガヤしていました。そばに行ってみんなが見ている方向を見たら、空が真っ赤になっていました。美しいな、と思いました」

 赤い空の下では、家族が炎に包まれていた。「父は上の弟を抱いて、母がよちよち歩きの下の弟をおんぶして防…

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