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東京へ ともに歩む

毎日新聞

聖火を空輸するための聖火灯を手にギリシャに向かう組織委員会の派遣団メンバー=羽田空港で1964年8月14日撮影

オリパラこぼれ話

1964年東京オリンピックの聖火 アジア国内をリレー

1964年東京五輪の聖火リレーでインドのニューデリー市内を走る女性ランナー=1964年8月28日、橋本紀一撮影

 夏に開幕する東京オリンピックの聖火リレーは新型コロナウイルスの影響を受け、ギリシャ国内リレーが中止になるなど想定外の事態が起きている。1964年の東京大会でも何度もアクシデントに見舞われた。しかし、ギリシャとユーラシア大陸のアジア11カ国を聖火リレーし、日本へとつないだ。

 聖火リレーは36年のベルリン大会から始まり、64年は6回目。各国間の移動は日本航空特別機「シティー・オブ・トーキョー号」を使い、組織委員会の派遣団が大規模な輸送を展開した。組織委員会の資料などによると、聖火は同年8月21日にギリシャのヘラ神殿跡での採火式後、アテネからイスタンブール(トルコ)やベイルート(レバノン)、ニューデリー(インド)、バンコク(タイ)、香港、台北(台湾)などを経由した。

聖火が沖縄に到着し、那覇空港での式典後に走るランナー=那覇市で1964年9月7日、橋本紀一撮影

 採火された聖火はランタンに似た形状の聖火灯と呼ばれる容器に収められ、機内客室中央部の「聖火台」に置かれた。また、各国の聖火ランナーは東京五輪の大会エンブレムがデザインされたウエアを着て走り、見物する多くの人で盛り上がりを見せた。当時の毎日新聞は「インド人の女性ランナーが『トーチを握って走っている時、これが東京でともされるんだと思うと胸がいっぱいでした』と感激していた」と報じた。

 予定通りのスケジュールで進んでいたものの終盤の香港で台風の直撃を受けた。機体を格納庫に入れようとしたが、いっぱいだった。整備員2人が特別機に乗り込み、長い時間エンジンをかけながら機首を風に向け静止することで台風回避に努めた。しかし、風速55メートルの強風で飛んできた異物が翼にぶつかったらしい。荒天の中、整備員の点検で補助翼の一部が破損していることがわかり、飛行不能になった。

聖火の到着を前に日の丸の小旗を作った小学生=那覇市の小学校で1964年9月5日、橋本紀一撮影

 さらに翌朝、アクシデントが起きる。羽田から補修部品を積んでやってきた代替機に聖火を載せて、台北へ向けて出発しようとしたところ、滑走路入り口付近でエンジンが不調となり離陸が中止された。そのため、日航は定期便を緊急欠航させ、聖火は「第3の飛行機」によって台北へ運ばれた。「聖火台」のない機内では、聖火灯が倒れないように団員が大事に手で支えた。次の目的地の沖縄までは香港で修理された「シティー号」が使われた。

 予定より1日遅れの9月7日に聖火を迎えた沖縄は当時、米国の統治下で日本国旗の掲揚が制限されていたが、聖火リレーの応援では容認され、沿道を埋める住民らが日の丸の小旗を振って大声援。那覇市では歓迎式会場とコース沿道に市民約15万人が詰めかけ、祖国復帰への思いを強くしたという。

 しかし、日程がずれ込んだため、沖縄では8日にコース途中の久志村(現名護市)で聖火を「分火」せざるを得なくなった。一つは予定通り9日に鹿児島に向けて出発するために那覇空港へ。もう一つは予定通り島内のコースを回り、熊本で合火した。国内は九州や北海道などをスタートする4コースに分かれて東京までリレーし、10月9日に集火された。「アジアの東京へ」とつながれた聖火は、翌日の開会式の聖火台で勢いよく燃え上がった。

 東京2020大会の国内聖火リレーは今月26日に福島県のJヴィレッジをスタートする。「復興五輪」を掲げ、東日本大震災や阪神大震災、熊本地震の被災地など全国859市区町村(3月18日現在)を121日間で巡り、7月24日の開会式で聖火台に点火される。【関根浩一】

関根浩一

東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。