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村上春樹をめぐるメモらんだむ

世代間の断層示す二人の文章 「猫を棄てる」と「大きな字で書くこと」 =完全版

文芸評論家の加藤典洋さん(左)と作家の村上春樹さん

 前回紹介した熊本市でのトークイベントで本人が明らかにした通り、村上春樹さんのエッセー「猫を棄(す)てる」(文芸春秋)が4月下旬に刊行される。12年前に90歳で亡くなった父親のことをはじめプライベートな事実を多くつづったこの文章は、2019年に雑誌掲載され話題を呼んだが、単行本化に際しては若い台湾の女性イラストレーターの描いたイラストが付くという。作家自身が「小さな本になる」と語ったように、版元の公開情報では判型が新書判、ページ数は104ページとなっており、確かに小ぶりの本になりそうだ。

 村上さんは(少なくとも小説では)本にする際、初出の原稿にかなり手を入れる場合もあるし、前書きや後書きも含めて加筆される可能性もあるから、刊行前の作品についてあれこれ言うのは当を得ないかもしれない。また、筆者は既に雑誌発表の時点で短い記事を書いてもいるのだが、本の出来上がりを楽しみにしつつ、今回は「猫を棄てる」に関して、もう少し考えてみたい。

 このエッセーを最初に読んだ時の驚きと衝撃は大きかった。まず、それまでほとんど書かれたことのなかった家族、特に父母についての詳しい記述があった。村上さんが京都に生まれ、主に西宮や芦屋などの「阪神間」で育った関西人で、大学入学を機に東京へ出たこと、一人っ子で、大学在学中に学生結婚し、またジャズ喫茶の店を開いて仕事を始め、大学は7年かけて卒業したこと――などは、初期のエッセーに割とよく書いていた。結婚当初、夫人の実家で間借りしていたこととか、夫人との日常のやり取りなどもけっこう面白おかしくつづっていた印象がある。

 だが、なぜだか両親や、生まれ育った実家の話はあまり書いていなかった。まあ、読者としては、既に立派な大人の(というのもおかしいが)作家自身に興味があるので、親がどんな人かなど知らなくても問題ないわけだが、関西と東京、あるいは阪神タイガースとヤクルトスワローズの比較などはけっこう話題にしていたのに、格好の素材になっていいはずの親は、そういえば影が薄かった。

 それが「猫を棄てる」では、父母の出自がはっきりと記され、中でも父親については出生の日付、京都の大きな寺の住職だったその父(作家の祖父)や兄弟たち(作家の伯父・叔父)のことまで書いている。とりわけ日中戦争と第二次世界大戦で計3度召集された父親の従軍歴に関しては、没後に調査したことを含めて詳細に書き込んでいた。この点に村上さんがこだわった理由は、一つには小学校低学年の時、父親から聞かされた「捕虜にした中国兵の処刑」の「残忍な光景」がトラウマとなって残ったことであり、もう一つは父親が虐殺の行われた「南京攻略戦に参加したのではないかという疑念」を抱いていたことにあったようだ。結局、調べたところ、南京戦には参加していないと分かったのだが。

 そして、改めて読み直してみても、やはり幼い村上さんが耳にした中国兵「斬殺」の話は最も鋭く、重く読者にものしかかってくる。この点は前に書いたので繰り返さないが、作家がその場面での父親について「同じ部隊の仲間の兵士が処刑を執行するのをただそばで見せられていたのか、あるいはもっと深く関与させられたのか、そのへんのところはわからない。(中略)いずれにしても、その出来事が彼の心に――兵であり僧であった彼の魂に――大きなしこりとなって残ったのは、確かなことのように思える」と、慎重ながらも明確に記しているのは、親に対する子供の視線としてはかなり冷徹なものに思われる。このことは子供時代の学業成績に関して「父の期待に十分こたえることができなかった」と感じ続けていた話、長じて親子関係が「ずいぶん冷え切ったもの」となった話とともに、やや読者を戸惑わせるところでもある。

 また、最初に読んだ時にも感じたのだが、この作家にしては珍しく、「猫を棄てる」は文章の構成があまりかっちりと整っていない。父親と自分の関係を語る部分と、父親の閲歴を語る部分とが交互に取って代わるような、叙述の揺れがあると読めた。といって話が分かりにくいわけではないが、もっと整理された形で書けるはずのものが、あえて思い浮かぶまま、といった体裁で書かれている気がした。これは歴史学者の文章ではないのだから当然だともいえるし、意図的にこうした書き方を取ることによって読者を揺さぶろうとした作家的なテクニックだという見方もあり得るだろう。こうだと断定はもちろんできないが、筆者には、父親について語ろうとした時に作家自身が覚えざるを得なかった心の揺らぎが、そのまま文章に反映していて、むしろ作家はここで自ら…

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大井浩一

1987年入社。東京学芸部編集委員。1996年から東京と大阪の学芸部で主に文芸・論壇を担当。村上春樹さんの取材は97年から続けている。著書に「批評の熱度 体験的吉本隆明論」(勁草書房)、共編書に「2100年へのパラダイム・シフト」(作品社)などがある。

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