メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

志村けんさんが作った「笑いの教科書」のルーツとは 共にコントを作った西条昇さんが悼む

気さくにポーズに応じながらも「本当は照れるんだよね」と話す志村けんさん=東京都千代田区で2010年4月27日、尾籠章裕撮影

 3月29日に新型コロナウイルスによる肺炎のため、70歳で死去した志村けんさんは、日本のお笑い史に輝く希代のコント王だった。「加トちゃんケンちゃん」の構成作家で、一緒にコントを作った西条昇さん(江戸川大教授、お笑い評論家)が悼んだ。

 私は小学生の頃、志村さんがドリフターズの付き人同士でコンビを組んだ「マックボンボン」の生の舞台を見ている。浅草の国際劇場での小柳ルミ子ショーで、確か野球のコントだった。志村さんは、かかと落としのように足をはね上げて、足の裏で相方の頰をパーンと張り倒してみせた。その動きの切れ味に、笑うよりも驚いた。

 1974年に荒井注に代わってドリフの新メンバーに。それからの2年は、キャラクターが視聴者に浸透しない状態が続き、体を張った熱演も空転気味だったが、76年の「東村山音頭」のヒットで大ブレーク。股間から白鳥の首の伸びたバレエのチュチュや、両方の乳首の部分だけ丸くくりぬかれた衣装で「イッチョメ、イッチョメ!」とシャウトする姿は自信に溢(あふ)れていた。

 88年からの1年間、私は「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の構成作家の一人として、コント作りの台本会議で憧れの志村さんの隣に座ることになった。会議は、まさに生みの苦しみで、1時間以上の沈黙もザラ。真剣な表情でギャグを考えながら、時折、「こないだ見た映画のこういう場面が面白かったんだ」と話しはじめる。その一言からコントが組み立てられていくことも多々あった。志村さんは、輸入レコード店で海外の喜劇映画やコント番組を…

この記事は有料記事です。

残り714文字(全文1364文字)

広瀬登

2002年入社。横浜支局、京都支局を経て、現在は東京本社学芸部。放送、映画、美術、書評、音楽などを担当してきた。「きかんしゃトーマス」好き。

おすすめ記事
広告
毎日新聞のアカウント
ピックアップ
話題の記事

アクセスランキング

毎時01分更新

  1. 新宿区、困窮者に退出促す ホテル滞在、東京都の延長知らせず

  2. 「どんな思いで亡くなられたのか」めぐみさんの同級生、声を詰まらせ 横田滋さん死去

  3. 「民度が違う」発言で麻生氏がさらした決定的な事実誤認とは

  4. ORICON NEWS 生田斗真&清野菜名が結婚発表「お互いを支え合いながら共にこの危機を乗り越え」

  5. 自衛隊員の「テンピン停職」知りながら…法務省、黒川氏処分の「参考にせず」

編集部のオススメ記事

のマークについて

今週のおすすめ
毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです