メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

村上春樹をめぐるメモらんだむ

「日本文学離れ」の欲求の先に… なぜ村上春樹は世界中で読まれる存在になったのか=完全版

村上春樹さん=2020年2月、津村豊和撮影

 なぜ村上春樹という人だけが現代日本の作家で一人、こんなに世界中で読まれる特別な存在になったのか。

 これは村上文学に関する大きなテーマであり、既に国内外の数多くの研究者、評論家らによって、さまざまな分析、解説が試みられてきた。むろん筆者に十分な準備や際立ったアイデアがあるわけではないが、ちょっと意外なところからヒントを得たので、それを記してみたい。

 唐突だが、1974年というから半世紀近くも前に、詩人の大岡信(31~2017年)と作家の丸谷才一(25~12年)が「唱和と即興」と題する対談をおこなっている。雑誌「俳句」(74年9月号)に掲載されたものだ。俳人、高浜虚子の連句に対する関心や、与謝野鉄幹・晶子をはじめとする歌人夫妻の唱和といった話題を縦横に語り合いつつ、2人は俳句・短歌をはじめとする近現代の文学が抱える問題を浮き彫りにしている。特に大正期以降、短歌も俳句も生真面目に孤独を追求する態度が強くなったといい、この点を「文明全体の問題」として論じている。

 少し背景を補足すると、古典に詳しい大岡には、日本の詩歌に時代を超えて共通する「合わす」原理があるとする評論「うたげと孤心」(78年)があり、対談は初出の雑誌連載(「すばる」)が終わるタイミングでおこなわれた。「合わす」原理は、古代から和歌の世界で盛んだった贈答歌や歌合(うたあわせ)、歌謡、連歌、俳諧から現代の短歌・俳句の結社にまで連なる、文学に豊かな実りをもたらす重要な要素とされた。また、丸谷は大岡らと70年以降、晩年まで連句を共同制作した親しい関係にあり、自らも評論に力を入れ、特に戦後文学の自然主義的、私小説的な傾向を鋭く批判していた。と同時に、村上作品をデビュー時から高く評価してきた人として知られる。

 2人の対談に、次のようなやり取りがある。

 大岡「近代芸術っていうのは、みなそれぞれ非常に孤独であって、孤独の行き着く果てには何もないと覚悟しながらも、とにかく行き着くとこまで行こうということでやってきてるというのが、まあいえば一般的な行き方ですよね。その中で歌人とか俳人の結社っていう組織は、非常に不思議な支えになっていて、そういう精神的な孤独をわずかに支えてきたんだろうっていう気がする(以下略)」

 丸谷「文学者が一応孤独であるってことは、これはあたりまえのことで、それ自体はいいも悪いもない。しかし、残るのは、文学それ自体が孤独な感じの単なる表明では、読むほうとしてはやり切れないという問題ですよね。そしておそらくつくってるほうとしても、それでは自分の世界を十全な形で表現したことになり得ないだろうってことがある」

 今、問題は村上作品の独自さなので、対談で主要な対象だった短歌や俳句についてはとりあえず触れずにおき、小説に関して74年前後がどんな時期だったかを見てみよう。ひと言でいうと、文壇の主流はいわゆる第一次戦後派から第三の新人、内向の世代にかけての戦前・戦中生まれの作家たちが占めていた。例えば、野間宏の長編「青年の環」が70年に完結し、島尾敏雄の「死の棘(とげ)」が77年に出版され、埴谷雄高は「死霊」を書き継いでいる。大江健三郎さんは73年に「洪水はわが魂に及び」を出すなど精力的な仕事を続けている。三島由紀夫が70年、川端康成は72年に自殺し、もういない。

 一方で、戦後30年近くたち、ようやく戦後生まれの作家も活躍を始めていた。トップランナーは中上健次(46~92年)で、73年に「十九歳の地図」が初めて芥川賞候補となり、76年に「岬」により戦後生まれでは初めて同賞(75年下期)を受賞する。同年(76年上期)には村上龍さん(52年生まれ)も「限りなく透明に近いブルー」で受賞し、新世代の登場を印象づけた。79年デビューの村上春樹さん(49年生まれ)はまだ姿を見せていない。

 若い世代の作家たちの動向が、どこまで丸谷、大岡らの視野に入っていたかは別にして、文壇主流についてはあまりにも「孤独」追求一辺倒の、そういう意味では戦前の文学と変わらない生真面目すぎる表現、多分に私小説的な作品がなお力を持っていることへの異議を、2人は共有していたといえるだろう。

 そしてこのような状況下に、日本の文壇の傾向、私小説的なものとは全く異なる作風、文体を引っ提げて現れたのが村上春樹さんだった。その新しさの意味は、同世代の文芸評論家で、このコラムでも度々取り上げてきた加藤典洋さん(48~19年)の、次のような比喩を引くとわかりやすいかもしれない。

 加藤さんによると、ある分子生物学者が、肌の張りをよくするコラーゲンというたんぱく質は健康食品などで摂取しても「消化管内で消化酵素の働きにより、ばらばらのアミノ酸に消化され吸収され」、その吸収されたばらばらのアミノ酸が新しいたんぱく質の合成材料になるが、「コラー…

この記事は有料記事です。

残り2092文字(全文4092文字)

大井浩一

1987年入社。東京学芸部編集委員。1996年から東京と大阪の学芸部で主に文芸・論壇を担当。村上春樹さんの取材は97年から続けている。著書に「批評の熱度 体験的吉本隆明論」(勁草書房)、共編書に「2100年へのパラダイム・シフト」(作品社)などがある。

おすすめ記事
広告
毎日新聞のアカウント
ピックアップ
話題の記事

アクセスランキング

毎時01分更新

  1. 米雇用改善 トランプ氏、死亡した黒人男性にとって「素晴らしい日」と発言 非難噴出

  2. 都知事選に出るワケ 熊本知事から「タイムリミット」示された副知事の決断

  3. 家計支えるのに給付金の対象外…困窮する定時制の高校生 「1日1食の日も」

  4. 時の在りか 小池都知事再選を危ぶむ=伊藤智永

  5. 最も評価する政治家は大阪・吉村知事 2位東京・小池氏 発信好感 毎日新聞世論調査

編集部のオススメ記事

のマークについて

今週のおすすめ
毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです