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戦後75年。日本の植民地政策や戦後の歩みを伝える場所を学ぼうと3月22日、在日コリアンが多く暮らす京都府宇治市伊勢田町のウトロ地区を訪ねた。
近鉄京都線大久保駅で降り、陸上自衛隊大久保駐屯地横の歩道を歩いていくと、さびて崩れ落ちそうな建物群が見えてきた。番地がすべて同じ伊勢田町51のウトロ地区だ。かつての地名「宇戸口(うとぐち)」に由来するという約2万1000平方メートルの地区内には、「飯場」と呼ばれた労働者の宿舎跡が崩れながらも残り、住居だった周辺には生活用品や仕事道具などがあった。
同地区の歴史は、太平洋戦争中の1940年代、軍事飛行場建設に従事するため、各地から集められた朝鮮人労働者らの宿舎に始まる。宿舎とはいえ、当初は板囲いにわらなどを載せただけの簡素な小屋だったという。45年8月、日本の敗戦により、飛行場建設は中止。日本人労働者700人も暮らしていたが朝鮮人労働者やその家族ら1300人が取り残された。
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