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社史に人あり

関西には数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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高島屋/4 引き継がれた「報恩謝徳の精神」=広岩近広

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1889(明治22)年ごろの京都烏丸の店舗=髙島屋史料館提供 拡大
1889(明治22)年ごろの京都烏丸の店舗=髙島屋史料館提供

 江戸時代の1853(嘉永6)年6月、米軍の東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦など4隻を従えて、浦賀(神奈川県横須賀市)に来航した。ペリーの軍事的圧力を前に、徳川幕府は開国へとかじを切り、幕府をめぐる動向は騒然となる。国論は「開国か攘夷(じょうい)か」「佐幕か尊王か」「公武合体か倒幕か」に、激しく分裂していくのだった。

創業の地(京都市下京区烏丸通松原上る薬師前町)に建つ高島屋の記念碑。高島屋が1950年に四条河原町に移転後、53年から京都銀行本店となり現在に至る=髙島屋史料館提供 拡大
創業の地(京都市下京区烏丸通松原上る薬師前町)に建つ高島屋の記念碑。高島屋が1950年に四条河原町に移転後、53年から京都銀行本店となり現在に至る=髙島屋史料館提供

 高島屋が古着と木綿の店を構えていた京都では、激しい対立抗争の兆しが見られた。初代飯田新七は長女歌の婿養子(旧名は上田直次郎、飯田家に入って新太郎と改名)と相談して、古着の取り扱いをやめる。

 婿養子の新太郎は<京の街には諸国の大名や藩士、それに浪士たちが集まっている。もはや古着や木綿だけを商う時代やおへん>と口にしていた。武士の身なりから、衣服の需要を見越したのだ。

 1855(安政2)年1月、高島屋は呉服商として第一歩を踏み出すが、新しい商売を始めるには、なにより資金を必要とした。現在とちがって、融資を受けられる金融機関はなかった。

 初代新七は京都の五条で呉服商「菱弥(ひしや)」を営んでいた青井弥兵衛に、事情を話して相談する。商品や資金の援助をしてもらえないだろうか――との懇請であったが、弥兵衛は快く聞き入れた。商品の仕入れや資金の面で支援を惜しまなかったのは、初代新七と婿養子の真面目な性格と、その仕事ぶりを見込んだからである。

 1856(安政3)年、初代新七は名を「新兵衛」と改めて、隠居を決めこんだ。婿養子の新太郎を2代新七にして家督を譲り、後見役となった。このとき二人は、青井弥兵衛から受けた恩顧を忘れてはならないと、毎年新しくつくる絹物買い入れ帳の最初に「青井弥兵衛」の口座を書き入れることに決めた。

 隠居した初代(新兵衛)と2代新七が嘆いたのは、「菱弥」の閉店だった。青井家の跡取りがいなくなり、店を閉めたのである。それでも「青井弥兵衛」の名前は、ざっと90軒あった高島屋の買い入れ帳口座の1番目に、なんと30年以上も書き継がれた。

 体験を通して初代新七が説いた「報恩謝徳の精神」(受けた恩に感謝し、恩返しの気持ちを大切にする)は、「おかげにてやすうり」に通底している。高島屋における「商いの道」として、ずっと大切にされてきた。

 さて幕末の権力抗争は、京都で勃発する。1864(元治元)年7月、朝敵だとして京都から追放された長州藩の藩士が、京都御所を警護していた薩摩・会津藩など幕府連合軍を奇襲した。御所や蛤(はまぐり)御門(禁門)の前で激しい戦闘が繰り広げられたが、兵力の劣る長州藩は敗れ去った。

 いわゆる「蛤御門の変」による兵火は、折からの強い北風にあおられて、洛中(京都の市中)の大半を焼き尽くした。高島屋も例外ではなく、この戦火に巻き込まれるのだった。

(敬称略。構成と引用は高島屋の社史による。次回は5月23日に掲載予定)

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