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香原斗志「イタリア・オペラ名歌手カタログ」

オペラ評論家の香原斗志さんが、往年の名歌手から現在活躍する気鋭の若手までイタリアのオペラ歌手を毎回1人取り上げ、魅力をつづります。

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香原斗志「イタリア・オペラ名歌手カタログ」

<第4回> ルチアーノ・パヴァロッティ(テノール)

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ルチアーノ・パヴァロッティ
ルチアーノ・パヴァロッティ

輝く圧倒的な歌声を支えた盤石の技術

世界で最も成功したのにはわけがある

 その声に身を任せるだけで至福の時をすごせる。そんな歌手の最右翼がルチアーノ・パヴァロッティである。湧き上がる艶やかな声、純粋でやわらかく均質な響き、輝かしい高音はいうまでもない。少しの力みもない発声に支えられた簡潔なフレージングと優美なアクセントは、だれにもまねできないものだった。

 カラヤンが「神が声帯にキスをした」とたたえた彼の声を、「美声の垂れ流し」と揶揄(やゆ)する向きもあったが、パヴァロッティは持ち前の美声だけで勝負した歌手ではない。むしろ、慎重に習得された盤石の呼吸法と発声に支えられ、天性の力が最大限発揮されたと考えるべきで、響きの純粋さは堅固な技術の賜物(たまもの)である。アスリートの演技と同様、力みがなくスムーズであるほど、並大抵ではない努力と、そうして得られた至高の技に支えられている。

 デビューの役であった「ラ・ボエーム」のロドルフォは、響きの純粋さと力みのないフレージングで後進が近づけない高みにあった。「仮面舞踏会」のリッカルドも簡潔なラインと品位ある響きが特別だった。しかし、優美な響きとアクセント、簡潔なフレージングは、「清教徒」「ラ・ファヴォリータ」「ランメルモールのルチア」「愛の妙薬」等々、ベッリーニやドニゼッティの作品で最も生きたように思う。

 パヴァロッティが若くして、いかに美しく高貴な響きを習得していたか。メッザ・ヴォーチェをはじめとするテクニックがいかに万全であったか。それは1968年に録音された「ヴェルディ/ドニゼッティ・アリア集」を聴くとよくわかる。人気が出るにつれ、フレージングが単調になり、弱音が響きを欠きがちになったけれど、もともと習得されたものがいかに高みにあったか、確認できるはずだ。

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 その後、真摯(しんし)な姿勢が多少失われたのは、1億枚以上のアルバムを売り上げ、1000万人以上を動員したほどの人気を獲得したためとあれば、致し方あるまい。しかし、芸術的な姿勢が多少緩んだくらいで、歌の魅力が損なわれるものではなかった。

 キャリア後期、パヴァロッティは商業主義だと批判され、その象徴が「3大テノール 世紀の競演」だった。しかし、1990年7月、ローマではじめて開催されたこのコンサートは空前の反響を呼び、テレビで放映されると全世界で10億人を超える人が視聴した結果、オペラ・ファンの裾野が広がった。内外のオペラ歌手へのインタビューで、歌手をめざすに至った動機を訪ねると、「3大テノールのコンサートを聴いて」、なかでも「パヴァロッティの歌に圧倒されて」と答える人が非常に多い。

 「パヴァロッティ 太陽のテノール」と題するドキュメンタリー映画が近日公開され(配給:ギャガ)、そこでは、この大テノールの天真爛漫(らんまん)な人柄と、それと裏返しのもろさがあぶりだされている。実は、もろさは歌心の母胎でもあった。2004年の最後の来日の際、全盛期とはくらべるべくもない歌声にも、この巨星の人生が迫りくるようで、涙を誘われたのを思い出す。

筆者プロフィル

 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家、オペラ評論家。イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。声の正確な分析と解説に定評がある。著書に「イタリアを旅する会話」(三修社)、共著に「イタリア文化事典」(丸善出版)。新刊「イタリア・オペラを疑え!」がアルテスパブリッシングより好評発売中。La valse by ぶらあぼに「いま聴いておきたい歌手たち」、ファッション・カルチャー誌「GQ japan」web版に「オペラは男と女の教科書だ」を連載中。

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