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高島屋の3代新七を継いだ飯田直次郎(2代新七の長男)は、貿易部を開設した翌年の1888(明治21)年4月、家督を弟の鉄三郎に譲った。まだ29歳ながら、病弱の兄を助けてくれた鉄三郎を、早々と4代新七に就かせた。
このあたりは先代の流儀と重なり、社史はこう伝えている。
<自分は二代新兵衛として四代新七を後見することにしたのです。これは、健康上の理由から周囲を説得し、弟に商人としての力を十分に発揮させようと試みたものでした。(略)「先御主人」として、「御当主」の四代新七を陰になり日向(ひなた)になって支援しました。このガッチリと呼吸の合った二人のコンビネーションが、この時期西に東にと事業を拡大することになったのです>
4代新七の鉄三郎は、当時ほとんど例をみなかった商人の海外視察に踏み切る。1889年3月から7カ月間にわたって、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、イギリス、そしてアメリカへと、単独で欧米を訪問したのだった。
4代新七は欧米から帰国後すぐに貿易部を拡大し、居留地経由で輸出貿易に精励する。高島屋史料館の高井多佳子研究員は「古文書が語る高島屋の歴史」で、「高島屋の貿易業」について、次のように説明している。
<外国との取引が次第に増加するにともない、それまで呉服店の一部にあった貿易部を独立させることにしました。明治26年(1893)6月、京都店東側に店舗を新築し、「高島屋飯田新七東店」として貿易店を開店。四代新七は弟藤二郎を店長、末弟太三郎を副店長とし、店内に刺繍(ししゅう)やビロード友禅の屏風(びょうぶ)、衝立(ついたて)、窓掛、寝台掛、卓掛などの工芸品、婦人用洋服地や着物ほか雑貨の陳列場を設けました。
高島屋の貿易店には商品を求める外国人が多く来店しました。明治29年、店長藤二郎が欧米視察をおこなって、翌年より羽二重の直輸出業を開始することになりました。その同じ年、副店長太三郎をフランスに派遣し、同32年にはフランスのリヨンに出張所を開設。翌33年、直輸出の取引高が増加したため横浜に高島屋横浜貿易店を、同38年には直輸入業進出のため高島屋東京丸之内店を開店しました。その後、ロンドン、ニューヨーク、天津、シドニーなど海外にも出張所を次々と開設、経営規模を世界へ拡大していきました>
鉄三郎ら初代新七の孫たちは、子どもの頃に祖父から「日本中はおろか遠く世界を相手にした商いをすることが大切や」と聞かされていた。海外進出は、その実践であった。
彼らは、実に多士済々である。たとえば三男の政之助は、暗算の名手で知られた。商いの生命といわれる、呉服の仕入れが鋭くて厳しく、しかも正確だった。天才的と言われた政之助の眼力は、京呉服仕入れの第一人者として、高島屋の権威になっていた。
政之助は二十余年にわたって、京都本店の店長を務めた。1919(大正8)年に合名会社から株式会社に組織替えし、社名を「株式会社高島屋呉服店」に変更したとき、政之助は初代社長に就任している。
(敬称略。構成と引用は高島屋の社史による。次回は6月27日に掲載予定)