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常夏通信

その49 74年目の東京大空襲(35) 空襲被害者の救済で役割を「放棄した」司法 怠慢が続く国会

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東京大空襲訴訟で敗訴を確定させた最高裁判所の前で、抗議活動をする原告団=東京都千代田区で2013年5月10日、栗原俊雄撮影
東京大空襲訴訟で敗訴を確定させた最高裁判所の前で、抗議活動をする原告団=東京都千代田区で2013年5月10日、栗原俊雄撮影

 東京都千代田区の最高裁判所前。木々の新緑が目に鮮やかだ。そこで、30人近い人たちが拳を突き上げて叫んだ。「戦争被害受忍論を打ち破るぞ」「死ぬまで闘い抜くぞ」。今から7年前の2013年5月10日午後のことである。2日前の8日。東京大空襲の被害者たちが国に補償を求めて闘った裁判で、最高裁は原告の上告を退け、敗訴が確定していた。

 戦争で被害を受けた民間人が国に補償を求めて法廷闘争をした歴史は、すなわち原告敗訴の歴史でもある。東京大空襲訴訟に続いて、大阪空襲訴訟も14年に最高裁で敗訴が確定した。いずれも、一度も審理されないままの上告棄却であり、いわば「門前払い」であった。

「勝算はあったんですよ」

 15年冬。私は中山武敏弁護士(76)にインタビューした。東京大空襲訴訟の弁護団長だ。

 「あの裁判、勝算はあったのですか? あれだけ戦争被害受忍論がまかり通って、賠償請求訴訟が何度も敗訴していたのに」

 戦争被害受忍論はすなわち、「戦争では国民全体が何らかの被害に遭った。だからみんなで耐えなければならない。日本国憲法は、こうした被害を国が補償するということを想定していない。だから国が補償しなくても違憲ではない」という「法理」である。

 戦争は天災ではない。個人や集団の判断が起こす人災である。国民の参政権が強く制限され、戦争に反対する言論の自由もなかった大日本帝国の戦争では、この人災で為政者が負うべき責任は大きい。その為政者たちと、米軍による無差別爆撃で焼き殺され、あるいは逃げ惑った国民たちを丸めて「我慢しなさい」という理屈が、この受忍論だ。

 「8月ジャーナリズム」=戦争報道を一年中、かつ10年以上続けている常夏記者としては「冗談でしょ?」と突っ込みたくなる理屈だが、司法ではたびたび登場する理屈である。

 中山弁護士は、力強く答えた。

 「勝算はあったんですよ。受忍論が出てきたころとは、状況が変わっていましたから」

 本連載ですでに見たように、受忍論が最高裁判決で示されたのは1968年、在外財産の補償問題にかかわる裁判だった。87年には名古屋大空襲訴訟でも、最高裁で同様の判断が下された。

 いずれも、受忍論はあたかも時代劇で水戸黄門が持つ葵(あおい)の紋の印籠(いんろう)であった。つまりそれさえ示せば、後は議論の余地なし、といったふうだった。

 しかしその後、空襲被害者以外の民間人戦争被害者への援護が、不十分ながら進んでいた。さらにシベリア抑留の被害者らが国に補償を求めた裁判で、解決は立法府の判断に委ねられる、という判決も下された(97年、最高裁)。つまり国会が必要と認めれば、立法による救済もあり得るというもので、かつての「取り付く島もない」という司法判断も変化を見せていた。

 実際に東京、大阪の両裁判の判決では、その印籠が前面に出てくることはなかった。中山弁護士が指摘するように、戦後補償問題を巡っては状況が変わっていたのだ。

司法は役割を「放棄しています」

 両訴訟では、原告たちの深刻な被害が認定された。立法による解決が妥当、という判断も定着したと言っていい。東京大空襲の1審、2審とも、民間人戦争被害者にも救済や援護をするのが国の責務という原告の主張に対して、「心情的理解」を示した。また本連載その47で見たように、大阪高裁の判決では民間人戦争被害者に援護や補償をしないことが、違…

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