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村上春樹をめぐるメモらんだむ

「たった1ドル」から生まれた物語が映画に Tシャツを巡る写真付きエッセーが刊行=完全版

「村上T 僕の愛したTシャツたち」(マガジンハウス)の表紙

 村上春樹さんが雑誌「ポパイ」の2018年8月号~20年1月号に連載したエッセーに、インタビューなどを加えた本「村上T 僕の愛したTシャツたち」(マガジンハウス)が6月4日、刊行された。「6・4」はもちろん1989年に中国で起きた民主化運動に対する武力による制圧「天安門事件」の日付で、これは現在の香港での民主化運動に対する作家の連帯を示唆するものだ――というようなことはどこにも書かれておらず、筆者の勝手な思い込みにすぎない。エッセー集の内容も、そういうキナ臭い政治的な話は感じさせず、肩の凝らないユーモアに満ちたものです。

 このコラムはついつい硬い内容に陥りがちなので、今回は反省して、できるだけやわらかい話へ向かうよう努めたい。何しろ、村上さんが三十数年にわたって世界各地で買ったり、もらったりして「つい集まってしまった」Tシャツについてつづった18編のエッセーを、色もデザインも鮮やかな108枚のTシャツのカラー写真とともに収めた、軽快なタッチの本なのだから。硬くなりようもない、はずだ。

 紹介されているTシャツは、表紙にも載っているサーフィンもの(赤地に白くビーチサンダルとコーラ会社のロゴを染め抜いてある)から、ウイスキーやビール関係のもの、猫や犬やキツネ、トカゲや亀、熊など動物の絵が入ったもの、マラソン完走記念にもらったもの、さらには外国で本の出版の際、販売促進用に作った「MURAKAMI」の名前入りのもの等々、多彩だ。村上さんは今も「夏はTシャツのみ」というぐらい、日常的に着ているという。

 言うまでもないが、それぞれのエッセーがまた楽しい。例えば、胸に「ぼくはなにしろケチャップにまでケチャップをかけちゃうんだ」という意味の言葉が大きくプリントしてある、真っ赤なTシャツ。アメリカのケチャップ製造元が作ったもので、アメリカではこれを着て街を歩いていると、「いいねえ、そのTシャツ」とよく声をかけられると書いている。「声をかけてくるのはだいたい、いかにもケチャップが好きそうな善男善女、その多くはメタボ系の市民たちだ」。これに対し、ヨーロッパではそういう反応は起きない。「だいたいヨーロッパの人は、ケチャップなんてほとんど使わないものね」

 全体としてのポイントは、単行本化に際し行われたインタビューで自ら語っているように、持っていても「着られるTシャツと着られないTシャツ」がはっきり分かれること。「人目を引きたくない」と思っている人なので、ウイスキーを飲むのは好きだけど、ウイスキー会社の作ったシャツを朝から「着て歩きまわるのもちょっとなあ……」と考えたり、動物柄のシャツは「わあ、かわいい」と女子関係に言われたくて着ているような「居心地の悪さ」を感じたりして、実際はあまり着ないという。

 また、何かを主張する言葉の入った「メッセージTシャツは着られない」。着ていると、そのメッセージを「人って読むじゃないですか(笑い)。読まれると困るんだよね」。当然、自身の名前や作品名が入ったシャツも着られない。逆に「よく着ている」のはシンプルで渋めのデザインのもののようだ。

 では、「僕がいちばん大事にしている」Tシャツは何か? この答えは、本の「まえがき」でも、インタビューでも触れられ、表紙を除く本の最初に写真も掲げてある「“TONY”TAKITANI」と黒い文字の入った黄色のシャツだ。もちろん、村上ファンならすぐ短編小説「トニー滝谷」を思い浮かべるだろう。というか、この話は既にけっこう知れ渡ってもいるに違いない。作家が何度も書いてきた、それだけ印象に深い逸話だから。

 いま手元にある資料で紹介すると(これがこのTシャツに触れた最初の例かどうか分からないが)、第1期の「村上春樹全作品」第8巻(1991年)の「自作を語る」にこうある。ちなみに作品名はゴシック体表示されているのをカギ括弧(『』)に変えて引用する。

 「僕が『トニー滝谷』という話を書こうと思い立ったのは、ずっと前にマウイ島(米ハワイ州)で『TONY TAKITANI』と書かれた古着のTシャツを一ドルで買ったからであ…

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大井浩一

1987年入社。東京学芸部編集委員。1996年から東京と大阪の学芸部で主に文芸・論壇を担当。村上春樹さんの取材は97年から続けている。著書に「批評の熱度 体験的吉本隆明論」(勁草書房)、共編書に「2100年へのパラダイム・シフト」(作品社)などがある。

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