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社史に人あり

高島屋/10 「船乗り込み」に大阪人も仰天=広岩近広

衆目を集めた業界初の屋外看板=高島屋史料館提供

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 明治期の高島屋を支え、飛躍させたのは、若い兄弟たちだった。母親の飯田歌が説いた「和合協力」の実践にほかならない。飯田家の5人と、次女千代の婿養子になった忠三郎を加えて、6人の男たちが力を合わせた。

 そこで、忠三郎である。

大阪心斎橋店の初代店長として、高島屋を大阪に根づかせる努力を重ねた飯田忠三郎=高島屋史料館提供

 1898(明治31)年に大阪心斎橋店を誕生させたとき、忠三郎は初代店長に就いた。2代新兵衛(長男直次郎)が、大阪の呉服店「丸亀屋」を買い取って開店にこぎつけた。

 忠三郎は2代新兵衛と協力し合い、丸亀屋の在庫セールを「くらざらえ」と銘打った。新しい呼び名の大売り出しである。全商品を売り尽くすや、「京都の土蔵から直送」との触れ込みで、大量の商品を積みこんだ船を出した。この船は淀川を下り、道頓堀の戎橋に荷揚げする。

 江戸時代にあって歌舞伎役者は、江戸や京都から大阪に入る際に「船乗り込み」のデモンストレーションを行った。呉服商が「船乗り込み」をやってのけたのだから、さすがの大阪人も仰天したという。忠三郎が店長の心斎橋店は予想もつかない大盛況となり、2代新兵衛と息の合った船出だった。

 忠三郎は、大阪を意識した。どうすれば大阪で高島屋を印象づけることができるか、どうすれば同業の先行他店を追い越せるか、大阪のお客さんはどのような商品を好むか――と常に考えてリサーチを怠らなかった。

 忠三郎は、いつも手帳を持ち歩いた。即座に、メモに残すためである。たとえば、大阪人の髪形や風俗から絣(かすり)や帯に着目すると、すぐさまメモにしたうえで、久留米絣や縮緬(ちりめん)帯を大量に買いこんだ。

 「高島屋に行くと、絣や帯の良い品がそろっている」

 評判が評判を呼び、引きも切らずに買い物客が訪れるのだった。

 忠三郎は店長として、住み込んでいた少年店員の立場に立って気さくに接した。暑い盛りの夏場、蔵の2階に積んだ商品を売り場に出し入れする作業は汗だくになる。そこで午後2時ごろをめどに、忠三郎は蔵に姿を見せて声をかけた。

 「暑いな、裸になろうや」

 店長自ら上着を脱いで仕事をするので、店員は上半身を裸にして働けた。店が終わると、忠三郎は若い店員らと相撲を始める。彼らは、無邪気に取っ組み合いを演じた。丸亀屋から移った約10人と高島屋の30人の店員同士の融和をはかる狙いもあり、こうして店を一本化して総力を結集させた。

 若い店員の情操教育にも熱心で、月に1回、お坊さんの法話会を開いた。神仏を尊ぶ心を忘れないようにと、法話会を通じて教えたのである。

 また忠三郎は、早朝から一帯の掃除に精出した。やがて、うわさが広まった。

 「えらい気のきいた男衆が、高島屋はんにいる」

 うわさの主は、もちろん店長の忠三郎である。

 初代と2代の飯田新七が生き方として貫徹した「商いの道」は、こうして引き継がれていった。

 (敬称略。構成と引用は高島屋の社史による。次回は7月4日に掲載予定)

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