メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

2020ヒバクシャ

田中熙巳さん ヒバクシャ国際署名1184万筆 最後の年に挑む

集まった署名を前に核兵器禁止について語る日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員の田中熙巳さん=東京都港区で2020年6月10日、藤井太郎撮影(画像の一部を加工しています)

[PR]

 75年前、米軍が広島と長崎に投下した原爆で被害を受けた被爆者たちは、国際社会に核兵器廃絶を訴え続けてきた。記録報道「2020ヒバクシャ」の5回目は、被爆者運動の中核を担う日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)で事務局長を通算20年務めた研究者の歩みと、被爆者らの運動の軌跡をたどる。

 「今年は5年の取り組みの最後の年だから大々的に活動をする予定だったんですよ」。核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」の束を前に、日本被団協代表委員の田中熙巳(てるみ)さん(88)の表情は浮かない。署名は2016年に被爆者によりスタート。翌年に核兵器禁止条約が採択され、すべての国の批准を求めてオンラインと書面で国内外に賛同を呼びかけてきたが、新型コロナウイルスの影響で足踏みを余儀なくされた。

 6月上旬、アフリカ南部レソトが批准し、条約発効に必要な50カ国まで残り12カ国となった。田中さんは核兵器の実験や保有を禁じた条約には大きな意味があると語り、仲間が高齢化する中での署名活動は「被爆者による実質的に最後の訴えになる」と力を入れる。署名は1000万筆を超えたものの、目標とする億単位には遠い。「数の勢いはまだまだ。意思が伝わる署名でなければ」

        ■    ■    ■

 たなか・てるみ 日本原水爆被害者団体協議会代表委員。旧制長崎中学1年の時に爆心地から約3・2キロの自宅で被爆し、伯母ら親族5人を亡くした。東北大工学部助教授(材料工学)などを務めた。日本被団協事務局長を経て2017年から現職。埼玉県新座市在住。

        ■    ■    ■

「これまでにない大規模な運動必要」

 新型コロナウイルスによる緊急事態宣言さなかの4月下旬、田中熙巳さん(88)は埼玉県新座市の自宅からオンライン会議に参加していた。核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米する予定だったが、感染拡大を受けて日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は代表団の派遣を中止。会議も延期となり、5年に1度の機会に向けて参加準備を進めていた市民団体のメンバーや大学生らとインターネット上で集まった。

 「核兵器に固執する国々の指導者に核兵器を捨てさせようと思うなら、これまでにはないような大規模な運動が必要では」。参加者にそう提案した田中さんは近年、核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」に力を入れてきた。

 呼びかけを始めた翌年の2017年、国連で核兵器禁止条約が採択された。現在は条約の早期発効を目標に、NPT再検討会議で署名を提出する計画だった。オンライン会議では約1051万筆(最新の集計では約1184万筆)の署名が集まったことを報告。3月以降はコロナの影響で署名の呼びかけもままならず、対面のイベントは延期や縮小を余儀なくされた。それでも、被爆75年の今年を署名運動の最後の年と位置づけ、国内外に向けた訴えを続ける。

同級生の死 きっかけ

 田中さんは日本被団協事務局長を通算20年務め、運動を支えてきた。その歩みは、被爆者が核兵器廃絶を求めて世界に道を開いてきた軌跡と重なる。

 旧満州(現中国東北部)で4人きょうだいの2番目に生まれた。5歳の時に軍人だった父が病気で急死し、母に連れられて故郷の長崎に戻った。被爆したのは13歳の時だ。あの日は爆心地から3・2キロの自宅2階にいた。爆風で飛んできたガラス戸の下敷きになったものの、けがはなく、3日後に親戚の安否を確認するため母と爆心地に入る。家屋は跡形もなく消え、黒焦げの遺体が散乱していた光景に言葉を失った。伯母ら親族5人の命が奪われた。

 頼りにしていた親戚を亡くした終戦後、家族の生活は困窮した。父の軍人恩給は途絶え、預金封鎖が追い打ちをかける。「母子家庭が放り出され、なぜこんな貧乏をしなければならないのか」。疑問が拭えず、社会科学の本を読んだ。アルバイトを掛け持ちして高校を卒業し、理系の大学を目指して上京。出版社の営業などを経て、大学生協で働いていた時に米国によるビキニ水爆実験が行われた。

 遠洋漁業が打撃を受け、マグロが食卓から消えた。生協職員として原水爆反対の署名を集めて1軒ずつ訪ね歩くと、生活に影響を受けた主婦が賛同してくれた。署名は全国で3000万筆に及び、原水爆禁止を求めるうねりにつながっていく。

 田中さんは安定した職場でやりがいを感じていた一方、大学受験に毎年挑んでいた。働きながら勉強する余裕はなく、進学を半ば諦めかけた頃、友人が試験日が遅い東京理科大の願書を持ってきた。23歳で大学生となった。

 大学1年の夏休み、長崎に帰省した際、母校の長崎東高校体育館で開かれた第2回原水禁世界大会に足を運んだ。被爆者も多く集まり、国内だけで約3000人が参加し、会場は熱気にあふれていた。大会2日目に「私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」と宣言して日本被団協が設立される。だが、田中さん自身、当時は被爆者という意識は薄かった。「親戚を亡くした被害者ではあるけれど、病気はしていない。被爆者だという気持ちはなかった」

 変化が訪れるきっかけになったのは同級生の死だ。昔の仲間で集まる時に呼びかけ役になってくれた友人が白血病で亡くなった。「被爆した条件は自分とあまり変わらない。放射能の影響が出るかもしれない」。東京で被爆者手帳を取得した。卒業後は東北大工学部の助手となり、仙台に移り住む。10年ほどして宮城県の被爆者団体に顔を出した。最初は「お手伝い」のつもりだったが、仕事で休めない会長の代理で1976年に国連に核兵器廃絶を要請する日本被団協の代表団に参加したことが転機となる。

 

2015年のNPT再検討会議のNGOセッションで核兵器廃絶を訴える田中熙巳さん=2015年5月1日(日本被団協提供)

原爆過小評価「冗談じゃない」

 米ソ冷戦は緩和の方向に進みつつあったが、広島・長崎の原爆被害は過小評価されていた。当時の国連の公式見解では原爆による死者数は広島7万8000人、長崎2万7000人。「冗談じゃない。正確に知ってもらわなければ」。被害が国際的に認められていない現実に直面し、運動に没頭していく。

 85年、仙台在住ながら日本被団協の事務局長を引き受けた。研究者としても論文を抱えて忙しい日々を送っていた。平日は大学で働き、土日は新幹線で東京と行き来する。ストレスから不整脈となり、3年で事務局長を退いた。「(両立は)傲慢だった」と振り返るが、東北大を定年退官して埼玉県に引っ越し、再び事務局長に就いた。

 

証言を世界に発信

 「私の姿を見てしまったあなたたちはどうか目をそらさないで、もう一度見てほしい」。10年春の米ニューヨーク。長崎で被爆した谷口稜曄(すみてる)さん(17年に88歳で死去)の言葉に、NPT再検討会議の会場の空気が変わった。背中一面が真っ赤に焼けた自身の被爆直後の写真を掲げ、各国政府代表に訴えた谷口さんが話し終えると、何人かの代表が立ち上がって拍手し、その輪が会場中に広がった。05年から同会議に参加してきた田中さんにとっても「あのような証言は他にない」。表情まで伝わった谷口さんのプレゼンテーションは今でも記憶に刻み込まれている。

背中が焼けただれた自身の写真を手に核廃絶を訴える谷口さん=米ニューヨークの国連本部で2010年5月7日、加藤小夜撮影

 被爆の苦しみを心身に刻んだ谷口さんらの証言は、核なき世界の実現にむけて重要な役割を果たした。この頃から軍縮の場で「核兵器の非人道性」に光が当たるようになり、10年代前半は国際共同声明や国際会議が相次いだ。ウィーン、オスロ、ニューヨーク。数々の国際会議に出席してきた田中さんは、自身が語るだけでなく、被爆者が世界で発信する場を切り開いていく。

 その一つが、NPT再検討会議に合わせて05年から開催している国連本部での原爆展だ。構想は00年ごろから始まり、田中さんは調整役として奔走した。被爆地である広島、長崎両市とのやりとりに加え、国連から展示パネルに注文が付いた。一つは美術館並みに立派なパネルであること、もう一つは「残酷な被害の実態を直接見せるのは認められない」という指摘だった。子どもへの影響を懸念したためで、被害の写真を見せる際は、回復した本人たちの現状も説明することで了承を得た。実際の展示を見たキュレーターの女性が「ただ見せるより証言した方がいい。ぜひやりなさい」と推してくれ、被爆者が証言活動も行った。

米ニューヨークで開幕した核拡散防止条約(NPT)再検討会議。会場の国連本部では、日本被団協が初めて企画した「原爆展」も同時に始まった。原爆展の会場で、町村信孝外相(当時)に展示パネルの説明をする田中熙巳さん(中央)=ニューヨークの国連本部ロビーで2005年5月2日、遠藤孝康撮影

 

核禁止条約、ノーベール賞 積み重ね生きる

 積み重ねが実り、17年に核兵器禁止条約が採択された。事務局長を退いて代表委員となっていた田中さんは、秋のニューヨークに飛んだ。国連本部で行われる署名式をその目で確かめるためだ。式典会場には谷口さんと、元長崎大学長の土山秀夫さん(17年に92歳で死去)の遺影も持ち込まれた。

 条約採択に尽力した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)は同年ノーベル平和賞を受賞。授賞式で、カナダ在住の被爆者、サーロー節子さんはこう呼びかけた。「今日、みなさんに広島や長崎で亡くなった人々の存在を感じてほしい。一人一人に名前があり、一人一人が誰かに愛されていた。彼らの死を無駄にしてはいけない」。招待された田中さんは涙が落ちないように、目を閉じて天井を仰いだ。

 ともに核廃絶運動に取り組んできた仲間の多くは鬼籍に入った。大きな締めくくりだと感じた条約の採択から7月7日で3年。批准した国は38カ国で、発効に必要な50カ国に満たない。被爆国である日本は「日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要」と署名すらしていない。

 核兵器廃絶の道のりは容易ではないが、条約は一筋の光だ。「核兵器が1万以上ある現状では黙っておられない。生きているうちに語り尽くすしかないのです」【文・椋田佳代】

        ■    ■    ■

核拡散防止条約と核兵器禁止条約

 核拡散防止条約(NPT)は70年発効。国連安保理常任理事国5カ国(米露英仏中)に核保有を認める一方、その他の国に受領・製造・取得などを禁じて拡散を防ぐ。締約国・地域は191に上る。5年に1度の再検討会議では、核軍縮▽核不拡散▽原子力の平和利用――の3部門で議論する。再検討会議の前に議題を話し合う準備委員会もある。

 今年4月下旬に米ニューヨークで再検討会議が開幕予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、国連は延期を決定。感染拡大の収束を見通せないため、加盟国が「状況が許し次第、21年4月までに」開催することで合意した。今年はNPTが発効して50年の節目で、4月27日~5月22日に約190カ国・地域の代表団のほか、広島・長崎の被爆者らも参加を計画していた。

 核兵器禁止条約は、核兵器の使用や開発、実験、製造、保有のほか、核抑止力の根幹である「威嚇」や、条約で禁じられた活動への援助も禁止する。国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)が条約作りに貢献し、17年7月、国連加盟の6割を超える122カ国・地域の賛成多数で採択された。日本や核保有国など約40カ国は条約の交渉会議に参加しなかった。同年9月から署名が始まり、50カ国目の批准書が国連に寄託されてから90日後に発効する。6月8日現在、38カ国が批准している。

(記録報道「2020ヒバクシャ」は、毎月1回掲載予定です)

おすすめ記事
広告
毎日新聞のアカウント
ピックアップ
話題の記事

アクセスランキング

毎時01分更新

  1. 二階氏サイド、自民の「習主席来日中止」決議案に猛反発 「待った」の可能性も

  2. 鹿児島、新たに30人の感染確認 28人がクラスター発生の飲食店客

  3. 首相官邸ネット発信「中の人」は電通マン 前任者も 政権のSNS戦略と深いかかわり

  4. コロナ感染止まらぬ新宿・歌舞伎町 区長はすがる思いで大物ホストの携帯を鳴らした

  5. 「給付金、今すぐくれないなら死ぬ」 逮捕された男はなぜ窓口で騒いだのか 孤独と貧困と誤解と

編集部のオススメ記事

のマークについて

今週のおすすめ
毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです