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社史に人あり

高島屋/12 大店舗を成して大衆の百貨店へ=広岩近広

近代ゴシック式の大店舗として、1922年にオープンした長堀店=高島屋史料館提供

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 高島屋の大阪心斎橋店が漏電による火災に見舞われたのは、1919(大正8)年5月20日午後4時半だった。木造2階の天井から出火した炎は町内にも飛び火する。一時、混乱も見られたが、消防隊の総出動と大阪騎兵連隊の応援により、大きな被害に至らずにすんだ。

 支配人の細原和一は出火の報告を受けるや、買い物客の安全避難をまず優先した。入店客の全員に預かっていた下足を手渡し、一人の間違いもなく無事に店外に出たのを確かめるや、次の行動に出る。まず細原は、電話係に持ち場を離れないように伝えた。店員には、帳簿類などの貴重品や商品の持ち出しを命じている。

 強い西風を受けて、火勢は予想外に強かった。売り場に入ると、表の入り口は反物の山で閉ざされていた。あわてて通路をつくってから、店員全員に立ち退きを指示する。それでも、懸命に丸帯を巻いている者が残っていた。細原は大声で呼びかけて、持ち場から離れさせた。

 表に飛び出ると、ショーウインドーのなかで陳列品の片づけに大わらわの者が目に飛びこんだ。細原はショーウインドーのガラスを外からたたき割って、かろうじて救出した。細原は社史で、こう振り返っている。

 <死傷者をひとりも出さなかったのが、せめてものすくいでした。この火事で三津寺筋の電柱によじ登り、私の命令の徹底伝達に当たってくれた人など忘れることができません(略)焼け跡の板囲いは鎮火後三時間あまりで完成し、多くの人が火事場見物に殺到した時には、もう整然としていました>

 鎮火後、細原は素足に草履履きといった当時の風習に従い、店長と一緒に裏長屋までくまなくおわびにまわる。「不可抗力の天災」と言われていた漏電だけに、同情の声も多く寄せられた。細原の誠意も伝わって、町の人たちの応対は温かだった。

新店舗の長堀店を背景に、長堀川で船を使った宣伝風景=高島屋史料館提供

 細原をはじめ店員は不眠不休で事後処理にあたり、9月には店舗が再建された。世間も驚くほどの迅速さだった。また店舗再建の大売り出しは新聞に御礼広告を出すまでの大盛況で、顧客の激励と応援を受けたことを物語っている。

 本格的な百貨店を目指して新店舗の建設が決まると、細原は営業部長の飯田新三郎とアメリカに飛んだ。最新式設備を導入するための任だった。

 心斎橋店は22(大正11)年9月に閉鎖し、翌10月、長堀店が7階建ての近代ゴシック式大店舗としてオープンする。新館の長堀店は全館に換気装置を配し、エレベーター4基を設けた。営業部の商品は呉服、洋服、雑貨、美術、日用品、食料品、食堂、外商、装飾、通販と多彩な分類になった。

 社内体制は営業部、宣伝部、経理部、管理部の4部門制をとり、支配人の細原以下957人によって、大店舗の百貨店としての歩みが始まる。30年には、商号を「株式会社高島屋呉服店」から「株式会社高島屋」とし、名実ともに近代的百貨店となった。

 漏電火災という不慮の事故を乗り越えた細原のリーダーシップは、百貨店を大衆化させる改革にも見られた。たとえば下足預かりを廃止して、靴や草履のまま自由に出入りできるようにした。大衆化時代への先駆けであった。

 (敬称略。構成と引用は高島屋の社史による。次回は7月18日に掲載予定)

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