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記者・清六の戦争

/1 南京攻略に見つけた親戚の名前 戦争に踊らされた人生 最期の思いは

記者・伊藤清六が亡くなったとみられるフィリピン・マニラ東方の椰子林=2020年3月11日午後2時41分、伊藤絵理子撮影

 「父は恐れていた。ちょうどあの辺りに日本軍の洞窟があったんだ」

 ダムに面した急な斜面の中ほどを、地元男性(64)が指さした。張り巡らされたコンクリートの壁が途切れた上に、うっそうと木が茂っている。大勢の人が潜んでいたとは到底思えない。反対の斜面は木の根が地面をはうように広がり、歩くこともままならなそうだ。雨期ともなれば地面はぬかるみ、ぬれた衣服のまま狭い壕(ごう)に身を潜めているしかなかっただろう。

 今年3月。私はフィリピンの首都マニラから北東へ約50キロ、ブラカン州の山中にあるイポダムを訪れた。75年前、日米の激戦があったこの地の洞窟で、ガリ版刷りの新聞が作られていた。日本軍の陣地「神州要塞(ようさい)」にちなみ「神州毎日」と名付けられたその新聞は、爆撃を受けながらも約3カ月間、毎日発行された。海外の最新ニュースや評論などから、食料の食いつなぎ法といった実用的な内容、はては連載小説や兵士による俳句の投稿まで幅広く網羅し、情報と娯楽に飢えた兵士たちが先を争って回覧したという。

 発行したのは、毎日新聞社がフィリピンで経営していた「マニラ新聞社」の社員ら約10人だった。取材を主に担ったのは当時38歳だった伊藤清六。私の曽祖父の弟だ。

 清六は1907(明治40)年、岩手県の農家の五男として生まれた。新聞記者となってからは経済部や政治部で主に農業に関する記事を書いていた。44年、マニラ新聞社に取材部長として出向。戦況が悪化すると、マニラを脱出して日本軍と行動を共にし、兵士のための陣中新聞「神州毎日」を作った。陣地が陥落してからは1カ月あまりに及ぶ逃避行の末、45年6月30日、山中のヤシ林で餓死した。発行に携わったほぼ全員が飢餓や疫病により死亡する悲惨な結末だった。

 清六と神州毎日について調べるにつれ、「貧しい農村から苦学して記者になり、戦争の犠牲になった努力の人」という彼の姿が目の前に迫ってきた。

 ところが、清六の兄である曽祖父の日記の中にある一文を見つけ、人物像はより複雑な影を帯び始める。「昭和12(1937)年11月4日。清六の戦況通信が可成り大々的に東京日日新聞(現毎日新聞)に掲載されていた」。スマートフォンで調べると、日中戦争勃発の年。すぐにはピンと来なかったが、民間人殺害などがあった「南京事件」に至る戦争と分かり、血の気が引いた。戦争で命を絶たれた「犠牲者」だと思っていた清六が、もしかしたら「…

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