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社史に人あり

高島屋/13 人脈から生まれた新規事業=広岩近広

高島屋の「百選会」は1994年の第183回まで続いた。写真は和服地が華やかに並んだ東京の会場=1954年3月

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 「民芸」について、広辞苑のデジタル版は<庶民の生活の中から生まれた、郷土的な工芸。実用性と素朴な美とが愛好される>と説明している。大正期の宗教哲学者で、近代美術に精通した柳宗悦(むねよし)の造語という。

自作の陶器を前に語り合う河井寛次郎(右から2人目)と川勝堅一(右端)=1921年の東京店展覧会の会場で(高島屋史料館提供)

 柳は、関東大震災(1923年9月)を経て、京都に移住した。2年後、盟友の陶芸家、河井寛次郎と浜田庄司の3人で、紀州路の旅に出る。道中で柳は「我々の目指すのは民衆的工芸品、すなわち民芸である」と切り出す。2人の支持を得て、「民芸」の造語が生まれた。民芸運動の始まりだった。

 当時、高島屋の宣伝部長だった川勝堅一は、河井と親交を結んでいた縁で、民芸運動の仲間たちと知り合う。社史は次のように書き留めている。

 <彼らの芸術論に賛同した川勝と当時の高島屋は、河井寛次郎やバーナード・リーチらの展覧会を積極的に開催、民藝運動のバックアップをはかります。やがて「民藝(みんげい)」の名を全国に知らしめるべく、彼らが全国各地から収集した品々をかつてない規模で、東京、翌年には大阪で、展覧即売します>

 ところで高島屋は1913(大正2)年から、染織品の新柄図案を募集し、審査したうえで発表する「百選会」を始めていた。当時、京都本店の店長で、後に「株式会社高島屋呉服店」の初代社長に就く飯田政之助の発案だった。「百選会」の展示販売は好評で、顧問に与謝野晶子や堀口大学らが名を連ねた。晶子は<めでたくも 春を重ねる高島屋 心の花の 盛りなりけれ>と詠んだ。

 川勝の「百選会」での活動について、立命館大学の山本真紗子講師の論文「戦前期の高島屋百選会の活動」(同大大学院先端総合学術研究科紀要「コア・エシックス」2013年)に、次の記述が見られる。

 <川勝の人物評でしばしば出てくるのが、その積極性である。(略)百選会の図案作成においても、自ら図案のアイディアを出し、図案を描くこともしながら励んだ。ときには斬新すぎると思われるような図案が川勝から提示されたようであるが、そのようなものであっても、何度も試作をかさねることで、実現していったという>

 川勝は多彩な人脈を通じて、商品づくりや新規の催事を成し遂げた。川勝の活動は、創業期の先人たちと重なる。創業の世代は、若手美術作家との親交を深め、彼らの下絵をもって世界の博覧会に臨んだ。高島屋の進取の精神を、川勝は受け継いでおり、社史は次のように記している。

 <創業以来、時代時代の中で働く多くの従業員によって大きく発展してきましたが、歴史の中ではひとりの人間が大きな役割を担うこともありました。そんな傑出した人を育てることも、企業の存続には必要なことかもしれません>

 そこで川勝ならではのエピソードを、戦前の支配人時代から紹介したい。

 <男女の仲は服務規律でも特に厳しかった。(略)当時川勝支配人がアメリカから帰って来て、朝礼で「社員同士の結婚を奨励する。私が仲人する」と爆弾発言。当時服務規律励行をとなえていた人事部もびっくり、早速に数組のカップルが誕生してまたびっくり、まさに積極進取の高島屋であった>

(敬称略。構成と引用は高島屋の社史による。次回は7月25日に掲載予定)

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