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東京へ ともに歩む

毎日新聞

東京マラソン男子車いすの部で、1位でフィニッシュする山本浩之(左)。右は2位となった鈴木朋樹=東京都千代田区で2018年2月25日、渡部直樹撮影

Passion

車いすマラソン・山本浩之 最後の勝負に挑む「中年の星」

 50代でもなお、世界のトップとして戦う選手は珍しい。レーサー(競技用車いす)を42・195キロこぎ続ける車いすマラソンは、体力勝負の側面が大きいからだ。だが、山本浩之(54)=はぁとスペース=は、20日で400日前となった東京パラリンピックに向けて「すべてを出し切る。今はそのための下地を作る期間」と泰然自若。4大会連続出場を狙う「中年の星」は、その情熱を絶やさず燃やしている。【真下信幸】

集大成の東京パラリンピック きっかけは車いすバスケ

ジュニア陸上教室で指導する山本浩之(右)=はぁとスペース提供

 「本気でパラリンピックに挑むのは東京が最後かな」と、自身の進退を明かした。日本パラ陸上競技連盟の強化指定選手に選ばれ、大会では常に上位争いに絡む山本ですら、年齢を考え始めた。「年齢的にも元気に走れるのは東京まで」。自身と向き合い、自国開催の祭典を集大成とすることを決めた。

 代表権獲得に向けて調整を続けていたさなか、新型コロナウイルスの影響で目標の舞台は1年延期された。幸いにも、感染リスクが低いとされる河川敷を走ることが多く、福岡市に置く練習拠点を奪われることはなかった。延期を冷静に受け止め、「時間の余裕ができたので、フォームやレーサーをこぐ時の体の位置をじっくりと見直している」。練習量を半分ほどに落とし、来たるべき時に向けて今は力を蓄えている。

 20歳の時にオートバイの事故で下半身不随になった。リハビリのために始めた車いすバスケットボールで2000年シドニー・パラリンピックを目指すも、代表入りはかなわず、陸上に転向した。そこで才能を開花させ、08年北京大会では車いすマラソンで6位入賞。ロンドン、リオデジャネイロ大会にも出場を果たし、マラソンの国際大会では数々のレースを制してきた。

激動のパラスポーツ 疲弊したままレースに臨んだ過去も

大分国際車いすマラソンの表彰式で副島正純(右)と談笑する山本浩之=大分市の市営陸上競技場で2015年11月8日午後2時51分、岩壁峻撮影

 酸いも甘いもかみ分けてきたベテランは、障害者スポーツ選手にとって厳しい時代も経験してきた。00年代までは、競技の認知度が低く、選手のサポート体制は十分ではなかった。国際大会に日本代表として派遣されても、渡航費やユニホームなどを自費で賄うことも多かった。通訳やトレーナーなどのスタッフもおらず、「他国の選手がマッサージを受けて疲れを取ってレースに向かう一方、自分たちは疲弊したまま走っていた」と、当時を振り返る。

 東京オリンピック・パラリンピックの開催決定や、14年度から障害者スポーツの所管が厚生労働省から健常者と同じ文部科学省に一元化されたことなどを契機に、理解は進んだ。「サポートはかなり充実した。昔より競技に打ち込める環境がある」と実感し、こう続ける。「これからもこの流れを継続してほしい」

 願いを実現するためには、東京大会の存在が欠かせない。「残存機能に沿ったルールの中で思い切り競い合い、一瞬一瞬の勝負に面白いところがある。東京大会をきっかけに、障害者スポーツが特別視されるのではなく、『いち競技スポーツ』として認知されることが大切。自分たちが面白さを発信して、多くの人に見てもらいたい」。55歳で迎える最後の挑戦は、未来につなげる役割も担っている。

やまもと・ひろゆき

 1966年生まれ、北九州市出身。20歳の時にバイク事故で下半身不随に。パラリンピックには2008年北京大会からマラソン、トラックで3大会連続出場。最高成績は北京大会のマラソン6位。国際マラソン大会は13年ボストン、16年大分国際、18年東京でいずれも優勝した。

真下信幸

毎日新聞東京本社運動部。1990年、神奈川県生まれ。2013年入社。鳥取支局、福山支局(広島県)を経て、18年4月から現職。パラスポーツや社会人、高校などのアマチュア野球を担当。19年はラグビーW杯も取材した。高校時代はラグビー部に所属。全国屈指の強豪・桐蔭学園からチームで奪った1トライを今でも自慢している(試合は7ー52で敗戦)。