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常夏通信

その53 74年目の東京大空襲(39) 沖縄にあって東京にはない記名碑 概数ではなく被害者一人一人の名前を

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沖縄戦の犠牲者らの名前が刻まれた「平和の礎」。戦没者の遺骨が遺族に戻ることはほとんどないため、遺族が故人をしのぶ重要な場所だ=沖縄県営平和祈念公園(糸満市)で2020年6月23日、栗原俊雄撮影
沖縄戦の犠牲者らの名前が刻まれた「平和の礎」。戦没者の遺骨が遺族に戻ることはほとんどないため、遺族が故人をしのぶ重要な場所だ=沖縄県営平和祈念公園(糸満市)で2020年6月23日、栗原俊雄撮影

 犠牲者の名前が刻まれたたくさんの碑が整然と、累々と建っている。今年6月23日朝。私は沖縄県糸満市の南端、摩文仁(まぶに)にある県営平和祈念公園を訪ねた。毎年この日、ここで県が主催する沖縄全戦没者追悼式が開かれる。

 今年は新型コロナ禍の影響で、規模が大幅に縮小された。例年参列する首相も招かれなかった。ごく一部の関係者を除き、県民も式には参列できなかった。ただ公園内への入場制限はなかった。私は県主催の追悼式に参列することはできず、園内にある「平和の礎(いしじ)」に向かった。

 戦没者の名前が刻まれた碑が118基。海に面した「平和の広場」を中心に放射状に配置されている。

 沖縄県出身の戦没者や、県外出身者で沖縄戦で亡くなった人たちの名前が刻銘されている。国籍も問わない。日本軍と戦った米兵らの名前もある。

 沖縄戦の終結から50年の1995年6月23日に建立された。氏名が判明すれば、追加で刻まれてきた。今年は新たに30人が追加され、合計で24万1593人となった。

 45年4月1日に沖縄に上陸した米軍に対し、守備する日本軍は持久戦を展開した。米軍の日本本土上陸を遅らせ、本土決戦の準備期間を確保する狙いがあったとみられる。しかし、米軍の侵攻は早く、日本軍の司令部は摩文仁に追い詰められた。司令官ら幹部が自決。同年6月23日、日本軍の組織的戦闘は終わったとされる。

多くの人が行き交った沖縄・平和の礎

 私がこの日に摩文仁を訪れるのは、2014年以来2度目だ。追悼式とは違い、礎では6年前と同じくらいたくさんの人が行き交っていた。

 時折、小雨が降り、蒸し暑い。遺族たちは碑の前にぬかずく。碑に刻まれた名前を手でなぞる中年の男性。固く目を閉じて手を合わせる老婦人。じっと碑を見つめる子ども。花や食べ物を供えて、語り合う家族。それぞれが戦争で奪われた大切な人を悼んでいた。

 60代後半の女性は、1歳で亡くなった兄の名前を見つめていた。

 「家族で壕(ごう)の中にいたそうです。兄が泣いて、周りの人から『うるさい』と言われて。それで兄は……。母からは詳しいことを聞けませんでした。一緒にいて生き残った兄や姉から聞いたんです。戦後、母は生きるのに精いっぱいで、考えるゆとりがなかったのでしょうね。心から笑うことはなかったな……」

 今回も6年前と同じように、本土の記者としては「そんなに悲惨なことが」と驚く話をたくさん聞いた。目の前で肉親が殺される、あるいは家族が家族を死に追いやらざるを得なかった、地上戦の地獄絵図を想像した。

        ◇        ◇

 女性が子ども4人と一緒に、礎のお参りを終えて歩き出した。女の子と男の子各2人、6歳と4歳、3歳と1歳。女性の子どもたちだ。駐車場へと向かうのか、女の子が言った。

 「こんなに暑い中、車まで歩くのー」

 母親は

 「戦争の時は、みんな歩いたんだよー」

 「今は戦争じゃないよー」と、女の子。

 「それ、幸せだよー」と、母親。

 偶然聞いた会話が強く印象に残った私は、母親に話しかけた。

 「(沖縄出身の)祖父がグアム島で亡くなりました。戦争のことはおばあちゃんたちからずっと聞いていました。(おばあちゃんたちは)来られなくなったけれど、私は毎年来ています」

 35歳。戦争が終わってから40年後に生まれたが、今も戦争に連なっている。

        ◇        ◇

 平和の礎は、「第二次世界大戦の邦人死亡者310万人」という概数ではない、一人一人の死者が見る者の胸に迫ってくる。ひとくくりにできない、またすべきではない人生が確かにあった。戦時下でも家族のだんらんはあった。親は子どもの成長を楽しみにして、子どもは将来に夢を抱いていただろう。しかし、戦争はその人たちの命と、その人たちが生きていれば誕生したであろう命まで奪った。

 遺族が集まって故人をしのぶ場として、非常に貴重な場所だ。第三者、メディアに関わる人間にとっても、犠牲者一人一人の心中や無念を想像させる源になるのが、この礎だと思う。私のようにここで遺族の話を聞き、戦争に関して報道するエネルギーをもらう者もいるだろう。

東京大空襲の公的資料館 東京になぜないのか?

 この礎を見るたびに考えるのは、内地の空襲被害者のことだ。たとえば東京大空襲。45年3月10日、たった一晩で10万人が殺されたことは、沖…

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