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社会

点字毎日5000号 ゆかりのOB、大いに語る

 通巻5000号を数えることになった点毎のこれまでの歩みとこれからについて、ゆかりのある2人に語り合ったもらった。点毎記者を経て社会福祉法人視覚障害者支援総合センターで前の理事長を務めた高橋實氏(89、全盲)と、大学院生の時に編集部で点字校正のアルバイトを経験した国立民族学博物館准教授の広瀬浩二郎氏(52、全盲)。進行役は点字毎日の遠藤哲也編集長が務めた。【構成・濱井良文、写真・澤田健】

視覚障害者支援総合センター前理事長 高橋實さん

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 ●――「5000」という数字をどのように感じておられますか?

 高橋 点毎OBとして感激の数字です。読者の一人としてもうれしく、関係者に心からお祝いを伝えたい。記念の読者の会を開きたいと考えていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で実現できなかった。5000号到達はただただ感激で、みんなと喜べないのが残念だなあと思っています。

 広瀬 僕の数字に対する感覚では、5000円札を持つと大金という気がします。高校は盲学校で陸上部でしたが、2、3㌔はよく練習で走りましたが、5㌔となると今日は長い距離と構えたものです。5000という数字の重みですね。

 よくぞ、ここまで続いたなあと思います。なぜ続いたかといえば二つあると考えています。一つは、毎日新聞という日本を代表する全国紙が発行母体で、バックがしっかりしていた。二つ目は点毎の特徴で、読者との距離が非常に近い。視覚障害者のためのメディアというところで編集をしていて、読者の側からするとインターネットで新聞を読めたりいろいろな情報を取れたりするようになったけれど、週に1回点毎が届くのは楽しみですし、点字ですぐに読める。支え支えられての相互関係があったので、5000号という数字を迎えられたのだと思います。

 ●――創刊当時について、盲人文化に詳しい広瀬さん、振り返ってもらえますか。

国立民族学博物館准教授 広瀬浩二郎さん

 広瀬 中村京太郎さんの発刊の言葉を読み返しましたが、社会の教科書に引用されている水平社宣言に勝るとも劣らぬ、日本の歴史にとっても意味のあるものだと思います。100年近く前に書かれた言葉ですが、決して古くない。今風に言うと、障害者の自立と社会参加。その両輪を大正時代に、明確に発行の意義としてうたっている。

 その発刊の言葉ができた背景ですが、僕が専門にした琵琶法師や瞽女(ごぜ)といった盲人の宗教者、芸能者が江戸以前の社会で活躍していた。一言でいうと、文字を使わない世界で自分たちの活躍の世界を広げていた。具体的に言うと、口伝や口承文芸で、師匠から言葉で伝承して、音と声でいろんな世界を表現していたわけです。

 考えてみれば、江戸時代以前の社会は庶民階級も文字を使わない生活をしていた。文字を使っていたのは貴族や寺社のごく一部で、社会の多数派が文字を使わない生活をしていた。そこで視覚障害の人たちは芸を伝授していた。それが寺子屋教育で識字率が上がり、今度は社会の多数派が文字を使うようになってくる。視覚障害者は文字を「使えない」存在として肩身が狭くなり、そこから差別というようなものも生まれてくる。「使わない」から「使えない」への変換が、江戸時代の300年の間にゆっくりゆっくり進んでいきました。

 明治時代になって学校教育が始まり、明治に新聞が発刊されて、庶民は文字を使うのが当たり前になった。1890(明治23)年に日本の点字ができ、盲学校教育で導入されるわけですが、それ以降も点字を読めない視覚障害者がたくさんいた。多数派が文字を使って生活するわけですから、肩身の狭い不自由を味わっているところに、大正デモクラシーの中で点字毎日が出てくる。そして普通選挙運動の中で点字投票の要求を積極的に展開し、点字を普及する。視覚障害者に文字を使える生活をしましょう、文字による情報伝達をしましょうということを点毎が率先して進めていくという、まさに新聞の社会的使命、それ以上のものがあった。文字を「使えない」存在だった人たちが点字というものを獲得し、社会参加にまでつながっていくわけです。近代の大きな転換点の中で、点字毎日が果たした役割は、石川倉次による日本点字の考案に匹敵するぐらいに意味のあるエポックメーキング(画期的)なことだったと思います。

世の中の問題抽出 高橋さん

  高橋 好本督(よしもとただす)といった人たちが、盲人を社会人として認めさせていくために何とかしなくてはと当時、新聞に気がついた。それを提言し、大阪毎日新聞の本山彦一社長がそれを実現させた。オーバーに言えば、ノーベル賞に価するほどの判断だったと思います。その頃も点字雑誌はいくつかあったけれども、大手新聞社が発行するという責任と自覚といいますかね、少なくとももうかる仕事ではなく、損をする仕事に踏み出したのが素晴らしいと思います。

 当時の点字毎日を見ていくと、しばらくの間、数字を大事にしていました。各県の読者数まで紙面で発表するというのは、おそらく営業政策でもあったろうと思います。盲人数とか点字習得者数、地方での盲人の動きを伝えて、相互連帯の意識を作り出していった元が大正11年の発刊だった。そこに中村京太郎という人を見つけてきたわけです。

 ●――好本も中村もクリスチャンでした。背景にキリスト教の教えもあったのでしょうか?

 高橋 私が視覚障害者への大学門戸開放運動にかかわって思ったのは、我々の先輩は、岩橋武夫、熊谷鉄太郎、石松量蔵ら、多くがクリスチャン。盲学校にも聖書研究会というのがほとんどにあったわけです。そういう土壌が点毎とどう関わったのかは分かりませんが、リードしていた方がクリスチャンでおられる意味はあるんでしょうね。

 広瀬 大正デモクラシーという時代を全体的に考える時、啓蒙(けいもう)思想、人道主義とかの部分で、視覚障害者に限らず、キリスト教が大きな影響を与えている。そこは研究テーマとして興味が尽きないところです。

 もう一つ歴史的にみると、キリスト教的基盤を持つ当事者がリーダーシップを取った点毎も、日本ライトハウスをつくる運動も、受け入れる社会の土壌があったと思う。琵琶法師や瞽女という視覚障害のある芸能者や宗教者がなぜ活躍できたかと考える時、本人の頑張りや芸能者として優れたものを身につけるということと、社会が必要なものと認めて尊重していく日本の民間信仰的な受け入れる側の土壌があった。そこにリーダーとして推進する側の思想がうまくミックスしてかみ合って、結びついたと思いますね。

対談する(左から)広瀬さん、高橋さん。右は遠藤哲也編集長

 ●――高橋さんからはOBとしての思い出を聞かせてもらえますか。

 高橋 生まれ変わってまた仕事に就くとしたら、点字毎日に勤めてもっといい仕事をしたい。それほどまでに私の人生は、点毎でつくられたと言っても過言ではないと思うんです。就職浪人を2年経験した後、1960(昭和35)年に入りました。私のように大学進学で、学習条件で、卒業後の問題で、大なり小なり苦汁をなめている人たちがいる。そういう人たちを無くす責任が我々にある。公私ともにこの仕事をさせてほしいと当時、お願いしました。それは点毎のプラスになるからやってくれと言われて、文月会を作ってのその後の運動があるんです。

 ずっと点毎をみてきて、創刊から私が入るまでは、三療の記事が多いんですよ。三療以外のことをどんどん取り上げないと、と言うと、当時は「盲人の8割の人がこの仕事に就いているんだ。それは仕方がない」と言われました。不幸にして8割が6割、4割、今は2割になっているわけですが。三療業が発展していた頃は、点毎は三療の記事で皆さんをもり立てていた。私の入社する頃から状況は悪くなって、三療の人たちは苦境に立たされるようになってきた。私がいた頃の点毎の状況だったと思いますね。

 点毎を読み出したのは1940年代。まだ17、18歳で、先輩に言われたのがきっかけです。点毎はインターポイントで行間が狭い。「点字読売」はインターラインで読みやすく、薄っぺらで読み切るのが簡単。4枚に折って配達されていたのを覚えています。点毎は三療のことばっかり。子どもながらに「これはおかしい」「この世の中はこんなものか」と感じました。

「論壇」通じ社会勉強 広瀬さん

 ●――今年が45年目の「和波孝禧のクラシック新譜」も高橋さんの企画とか。

 高橋 和波さんをくどくのに何回か東京に行きました。今の「読者のひろば」も、しばらくは「点筆の音」と呼んでいましたが、それでは晴眼者は書きにくいと変えました。私が大事にしたのは今の「情報フォーラム」。当時は「東西南北」と言っていた。ここでは地方のニュースを扱いました。当時は毎日、全国の地方版を読む担当者を一人置いて、「これは取材に行こう」とか、ずいぶん重視しましたね。

 ●――一番影響を受けた方は?

 高橋 鳥居篤治郎(とりい・とくじろう)先生とか、日点の本間一夫(ほんま・かずお)さんとかでしょうね。本間さんには電話でよく注意を受けました。校正の誤りには「これはこうだよ」とすぐに電話がかかってきた。大学時代に、点字毎日の記者になると言い回っていたものですから、東京時代の人がいろいろと情報を提供してくださった。お琴の関係の記事も当時は多かったと言えるでしょうね。

 ●――広瀬さんの点毎とのつながりは?

 広瀬 1987年に大学に入学しました。京大で初めての全盲学生ということで点毎に取材していただいた。それをきっかけに、これからいろんな意味で勉強していこうと、入学と同時に購読しました。僕にとっての点字毎日は、当時は毎週のように掲載されていた「論壇」の記事です。視覚障害者の世界に限らず、社会勉強になった。三療のことは直接関係ないにしても、同級生にやっている人もいましたし、同じ視覚障害者の仲間として、全体的な状況が点毎の記事や論壇で分かったのが良かったです。

 次に3年間のアルバイト。大学院に進学して、研究者の道も模索する時に、晴眼者の同級生と違ってアルバイトがなかなか見つからない中で、点字毎日の校正で使ってもらった。生活面でもありがたかったですが、僕にとって仲間と働くという喜びを教えてもらった。社会人として大人になる、実地に学んだ場として点字毎日が大きくあります。

 ちょうどアルバイトをしている時に活字版が創刊されました。これは僕個人、視覚障害者にとっても非常にうれしいできごと。点字毎日は視覚障害者の自立と社会参加が2本柱で、「of the blind」と「for the blind」の二つ。視覚障害コミュニティーの団結力をしっかり高める、視覚障害者として生きていく心構えを持つというメディア。社会参加で言えば、情報障害と言われている人に情報を伝えるメディアです。そこに活字版が出てきた。

 当時、大学院生で論壇に書かせてもらったり、自分自身が勉強になったりした記事もありましたが、残念ながら点字メディアなので周りの人に読んでもらえない。それが活字版の形で出ることで、点毎の可能性、窓口が広がった。三つ目の「from the blind」という視覚障害コミュニティーからの発信をすごく意識していますが、僕のバイトしている時に活字版が出たのはうれしかったですね。

 高橋 「論壇」の欄を設けたのも私なんです。もちろん投稿も求めたけれど、そもそもは、僕らが本当は言いたいけれども言っては問題があるから読者に代わりに言ってもらおうということで作ったんです。論壇で我々の思いを読者に伝えていったわけです。論壇を含めて、「読者の広場」で読者の声と同時に、世の中の問題点をできるだけ引っ張り出せるような方法を考えましたね。

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