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記者・清六の戦争

太平洋戦争末期、フィリピンの洞窟でガリ版刷りの新聞が発行されていました。取材を担った伊藤清六を親族の記者が追います。

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記者・清六の戦争

/5 見えてこない戦場の真実、本心 募るもどかしさ 上海から西へ、制圧続けた行軍

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1937年11月4日付の東京日日新聞夕刊1面。紙面中ほどに「伊藤(清)本社特派員」の署名がある
1937年11月4日付の東京日日新聞夕刊1面。紙面中ほどに「伊藤(清)本社特派員」の署名がある

 上海の観光地として名高い外灘(ワイタン)の北側、虹口地区の日本人街に、毎日新聞の前身である東京日日新聞と大阪毎日新聞の上海支局があった。1937(昭和12)年7月に始まった日中戦争は8月中旬、上海に飛び火していた。

 当時の記録によると、上海支局には東京から社会部長が出向き、取材の総指揮に当たる熱の入れようだった。特派員たちは朝、食糧を持って部隊の取材に出かけ、夜には支局に戻る。だが支局も「雨のごとく迫撃砲、小銃を浴び」安穏としてはいられなかった。

 清六が到着したのは上海占領間近の10月下旬だった。確認できた最初の全国版記事は11月4日付夕刊。「我軍蘇州南岸を躍進」の見出しに「上海戦線にて3日伊藤(清)本社特派員発」の署名付きの戦況記事だ。

 翌5日付は「一軒の建物で肉弾戦 十余時間対陣 遂に殲滅(せんめつ)」の顔写真付き記事。日本軍は「直ちに第一階を占拠し、ここに市街戦も市街戦、一軒の家屋の上下で肉弾戦を演じた」「手榴弾(しゅりゅうだん)が飛ぶ、部屋中に炸裂(さくれつ)し床は鮮血にまみれあまりの凄絶(せいぜつ)さに敵軍も最後と観念したか続々武器を捨てて降伏、階段は血の河、敵の死体が部屋中に転がっている」。殲滅…

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