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東京へ ともに歩む

毎日新聞

東京、北京冬季のパラリンピックへの連続出場を目指す佐藤圭一=本人提供

Passion

先行き不透明なパラリンピック 生涯現役・佐藤圭一の「一か八か」

 パラリンピックで夏冬連続出場の経験がある佐藤圭一(41)=エイベックス=の信念は「生涯現役」だ。25歳で会社員から競技者に転向した異色の存在は、トライアスロンで2021年東京、ノルディックスキー距離とバイアスロンで22年北京冬季の両パラリンピックを目指す。挑戦を続ける競技人生は、生来の「ギャンブラー気質」とともにあった。【岩壁峻】

東京「延期」で強いられた一か八かの調整

 新型コロナウイルスによる外出制限が緩和され、室内でのローラースキーのほか、屋外で自転車練習もできるようになった。安堵(あんど)する一方で、密集を避けての鍛錬には孤独感もつきまとう。「コロナの影響で(十分な)トレーニングを積めるのか心配はある」としながら、試行錯誤の日々を送る。

 年明けから冬季競技の大会が軒並み中止になり、東京パラリンピックの延期は「2月ごろから覚悟していた」。ただ、1年ずれ込んだことで北京パラリンピックまでの間隔が半年ほどになった。「東京に出場を果たして北京を目指すとなると、夏のために仕上げた体を冬仕様にする期間も必要になる。(冬季の練習に集中できるのは)実質3~4カ月しかない」。北京でもスキー距離とバイアスロンでの代表を目指すが、体力面を考慮してバイアスロンに注力することにした。いずれにせよ、突貫工事の調整だ。佐藤も「一か八かですね」と苦笑する。

 トライアスロンがパラリンピックで正式競技になったのは、16年リオデジャネイロ大会から。14年ソチ冬季大会までスキー、バイアスロンで2大会連続出場していた佐藤にとって夏季競技への挑戦は、冬の成績の伸び悩みを打開するためだった。ソチでは距離2種目とも22位。バイアスロンは2種目で10位、1種目で13位に終わった。「今まで通りの練習なら絶対成長しない。どうなるかわからないけど『始めちゃえ』と」。夏場のトレーニングで自転車に乗っていたこともあり、トライアスロン関係者からも誘いを受けていた。

異国で身につけた「怖いものなし」の性格

2018年平昌パラリンピックの距離男子10キロクラシカル(立位)で滑る佐藤圭一=アルペンシア・バイアスロンセンターで2018年3月17日、宮武祐希撮影

 生まれつき左手首から先がない佐藤の言葉の端々には、山っ気の強さがにじむ。そもそもスキーを始めたのも、そんな性格が起因していた。

 印刷会社で勤務していた05年のことだった。「仕事柄いろいろな印刷物を見てきた中でパラリンピックの情報が入ってきて……」。目にしたのは、06年トリノ冬季大会の紹介記事。たまたま距離のレースを観戦した1998年長野冬季大会の記憶がよみがえった。「10年バンクーバー冬季大会なら間に合うかも。やってみてだめなら次を考えればいい」。競技経験が全くないまま、05年にワーキングホリデーのビザでカナダへ。子どものスキーチームの練習を見よう見まねで滑るところから、本当にバンクーバー大会の代表を勝ち取ってみせた。

 「カナダでは最初英語も話せなかったし、スキー場に行くのもヒッチハイクだった。そんな生活をしていると、人間って怖いものがなくなる」と、佐藤は言う。東京パラリンピックの延期に「しょうがないな」と冷静になれたのも、これまでの経験と無縁ではなかった。

夏季パラ初挑戦は最下位 「リオ出場は運のようなもの」

 夏のパラリンピック初出場だったリオ大会で、トライアスロンは出場11選手中最下位だった。東京大会出場への意欲の源泉は、結果に対する悔しさだけでなく、リオ出場当時の経緯にもある。世界ランキングのポイントが足らず、当初は落選。「スキーの練習に入ろう」と思っていたさなかに、ロシア選手団のドーピング違反問題を受けての繰り上げ出場が決まった。「リオには運で行けたようなもの。『夏のパラリンピックには出ていない』という思いが常にある。自力で出場権を取らないと、この気持ちは拭えない」と語気を強める。

 夏、冬の大会ともに代表選考レースのめどは立っていない。不確定要素ばかりの現状でも、佐藤が口にしたのは「やるしかないですよね」という一言。自らの可能性に懸ける意気は決して衰えることがない。

さとう・けいいち

 1979年生まれ、愛知県出身。先天性の形成不全で左手首から先を欠損。冬季パラリンピックは、ノルディックスキー距離とバイアスロンで2010年バンクーバーから3大会連続出場中。18年平昌大会では計4種目に出場し、バイアスロン男子15キロ立位での8位入賞が最高だった。

岩壁峻

毎日新聞東京本社運動部。1986年、神奈川県生まれ。2009年入社。宇都宮支局、東京運動部、北陸総局(石川県)を経て、2019年10月から東京運動部。現在は主にパラスポーツを担当。2016年リオデジャネイロ・パラリンピックは現地取材した。中学~高校(2年まで)はバレーボール部。身長が低かったため、中学の顧問には「スパイクは打つな」と言われて育つ。