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敗戦直後にあって、百貨店の売り場はさびれて見えた。ほとんどの商品が配給を制限されたからで、高島屋も例外ではなかった。それでも1946(昭和21)年11月になると、販売可能になった生活必需品を集めて並べた。
当時の圧巻は、占領統治していたGHQ(連合国軍総司令部)の特命によって、東京と大阪の両店でシルクフェアを開いたことだろう。GHQの将兵とその家族向けのフェアで、これが大好評をもたらした。功労者は女性デザイナーとして戦前、高島屋に勤務していたドロシー・エドガースである。彼女の両親はアメリカ人だが、親日家の父が旧制高校の教師をしていたので、日本で生まれ、日本で育った。
高島屋は33(昭和8)年3月、東京の日本橋に新店舗をオープンし、2階には婦人洋装品売り場を開設する。大規模なファッションショーを日本で開催した実績が認められたエドガースが、専属デザイナーとして起用された。日本語が堪能なエドガースは、たちまち人気デザイナーとなる。仕事熱心で、責任感が強く、しかも作品は好評だった。
さて、シルクフェアである。GHQの意向を受けた通商産業省は、在庫の繊維製品を進駐軍の将兵や家族に販売してドル化する準備を進めていた。滞貨をさばけるとあって、具体的な交渉をすべく、当時の東京支店長がGHQを訪ねると、なんとエドガースを紹介される。彼女はGHQ繊維課長の職にあり、この奇遇により高島屋は、シルクフェアを開催できた。
49(昭和24)年4月に始まったシルクフェアは、エドガースの尽力もあって大成功をおさめる。さらに勢いに乗って6月から、輸出用の滞貨商品をドル売りするエキスポート・バザー売り場を、東京と大阪の両店に設けた。東京店の「開設秘話」を社史から引きたい。
<商品を入れるのにGHQの注文によって、ねずみ一匹入らぬようにと、全部トタン板を張った倉庫を八階につくったり(略)GHQの許可をとった特別列車を仕立ててもらったり(略)ナショナルシティバンクの出張所を売り場内に特設したり、結局準備に約一カ月を要して(略)無事テープカットを行うことができたのです>
エキスポート・バザーは爆発的な人気を呼んだ。社史によると、半期の売り上げは東京店で15億円をオーバーし、東京店全売り上げの半分近くにもなったという。
<日本の輸出向け繊維類の滞貨一掃と、外貨獲得に大きく貢献するとともに、その売場拡張によって、高島屋が他店に先駆けて復興をいち早く成しとげるキッカケになりました>
社史は続けて、エドガースに言及する。
<在日五十年、まさしく日米友好のかけ橋として、数多くの意義ある仕事を成し遂げた彼女は、高島屋にとっては忘れられない人のひとりです>
諸統制が解除され、日本の経済が復興してきた52(昭和27)年に、エキスポート・バザーはその役目を終えた。
(敬称略。構成と引用は高島屋の社史による。次回は8月8日に掲載予定)
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