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300人以上が亡くなった1945年の水戸空襲から2日で75年。元新聞記者の仙田長也さん(88)=東京都八王子市=に当時の被災体験を振り返っていただいた。「水戸が焼け野原と化したあの日の記憶は鮮明で、決して忘れられず、少しでも後世の人々に伝えたい」。仙田さんの思いを紹介する。【本多健】
焼夷弾の落下音「シュルシュル」怖かった
常磐町の自宅で、空襲警報で起こされると、兄と2人で防空頭巾をかぶり、2日未明に始まった空襲がやむのを待ちました。旧制水戸中2年で、14歳の誕生日でした。向かいの家には焼夷(しょうい)弾が落ち、消そうとしても、手に負えない。落下時の「シュルシュル」という音が自分たちを目標にしているようで、とても怖かったです。
焼夷弾は直径約10センチ、長さ約50センチの六角形の筒を「子」、それを何十発も抱えたものを「親」と呼びます。「親」は上空で爆発し、バラバラと四方八方に散った「子」は地面に落ちた衝撃で、中の薬剤が発火して飛び散るのです。
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