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記者・清六の戦争

太平洋戦争末期、フィリピンの洞窟でガリ版刷りの新聞が発行されていました。取材を担った伊藤清六を親族の記者が追います。

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記者・清六の戦争

/7 死と隣り合わせの戦場 支配する「まったく別の心理」 変質していった理想

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南京事件を伝える記念館の入り口に展示された彫像=中国・南京で2019年8月25日午前11時19分、伊藤絵理子撮影
南京事件を伝える記念館の入り口に展示された彫像=中国・南京で2019年8月25日午前11時19分、伊藤絵理子撮影

 今日は特別な日なのか。2019年夏、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」に向かっていた私は最寄りの地下鉄駅を出て驚いた。休日とはいえ館の前の広場は入り口が見えないほどの混雑ぶりで、子供連れも多い。列に並び入館した時には1時間以上たっていた。中国での南京事件への関心の高さを実感した。

 館内に「日本当局の虚偽宣伝」という一角があった。「日本の戦時報道統制政策の下では、日本軍の罪悪的な行状は隠ぺいされた分もあった」との説明書きがあり、日本軍が検閲で不許可とした残虐な写真も展示されている。

 見覚えのある写真に、足が止まった。毎日新聞の前身、東京日日新聞と大阪毎日新聞の特派員たちが、宿舎にした旅館の前で撮った集合写真だ。清六らしき顔もある。清六の人生を追ってきた私は、南京への特派員派遣が「格差なき社会を作る」との理想を掲げ、努力を重ねた末につかんだ成果だったことを知っていた。一方で、報道統制の中で戦場の惨状を伝えなかった記者たちが、虐殺などを行った「加害者」の一員とみなされる事実は重い。いたたまれなさを感じながら、私は記念館を後にした。

 10年の「日中歴史共同研究」報告書では、南京で虐殺、強姦(ごうかん)、略奪などが多発した背景として、日本軍に捕虜取り扱いの指針や占領後の住民保護計画がなかったことや、軍が食糧や物資の補給を無視したため略奪が起き、暴力行為を誘発したことなどが指摘されている。

 新聞時代社発行の「日本戦争外史 従軍記者」によると、日中戦争では1937(昭和12)年の1年間に従軍記者9人が死亡した。大阪毎日の特派員として清六と同時期に上海戦線に従軍し、後に1面コラム「余録」を担当した藤田信勝・元論説委員は戦後、著書「体験的新聞論」の中でこう記している。「いま考えて不思議でしようがないことがある。戦場で日本兵の死体をみると悲痛な感情が本能的にこみあげてくるのに、中国兵の死体をみても、そういう感情がおこらなかったということだ」

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