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記者・清六の戦争

/8 厳しい検閲 国民の不平不満、報道は「不可」 それでも農政への志は消えず

筆者の祖父のアルバムにあった親族の集合写真。旭日旗の後ろ(右から2人目)に立つのが清六。末弟(中央)が出征した1939年の撮影とみられる

 1938(昭和13)年7月1日、伊藤清六は東京日日新聞(現毎日新聞)の正社員に登用された。44年にフィリピンに出向するまでの約6年間、専門だった農政分野で筆を振るった。

 日中戦争を機に、日本は経済統制を始めた。農業の担い手が戦争に駆り出されたことなどで食糧不足が悪化、国は農地を管理下に置き、コメを強制的に買い取る供出制度を整えていく。

 40年3月、岩手の長兄清一への手紙に「議会に於(お)ける農村問題議論もややだるみ加減、僕が一度帰郷して一席やりたいほど勉強をしました」。4月に経済部に異動した際は「重大な転機となりました」と覚悟をつづっている。

 私は当初、清六にとってのこの時期を、日中戦争従軍と太平洋戦争開戦の間の「つかの間の平和」と考えていた。だが、国内でも闘いが待っていた。

 東京日日は同年9月、検閲課を創設。国からの指示や対応をまとめた「検閲週報」によると、農政関係では43年4月のコメの値上げについて、次の指示があった。物価の値上げを主張、予想する事項は不可▽物価の値上げ陳情、賃金値上げ要求運動の状況は不可▽国民生活の圧迫であるとの不平不満は不可……。これでは、国民が知りたい今後の生活の見通しは、ほとんど書けなかっただろう。

 紙面編集を担った当時の整理部長は戦後、日本新聞協会の聞き取りに対し、整理部に「作戦帳」があったと証言している。「一種のエンマ帳ですから、差し止められたものが全部貼ってあるわけです」。それを見ながら記事を載せた。31年の満州事変以来、社が内務省や陸海軍、外務省などから指示された掲載禁止・注意事項は40年までに千数百に達した。いちいち見ていたのでは間に合わず、「生き字引みたいに頭の中に入れておく専門の係」が検閲課として作られたという。

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