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記者・清六の戦争

太平洋戦争末期、フィリピンの洞窟でガリ版刷りの新聞が発行されていました。取材を担った伊藤清六を親族の記者が追います。

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記者・清六の戦争

/9 2020年マニラ 今も残る戦時の「遺構」 占領と抑圧の記憶

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設立時のマニラ新聞社本社=1942年10月12日撮影
設立時のマニラ新聞社本社=1942年10月12日撮影

 岩手の農村で苦学し、東京日日新聞(現毎日新聞)で農政記者となった伊藤清六。「搾取なき社会」を理想としたが、日中戦争で軍と一体化した報道を担う。帰国から6年、次は戦火の迫るマニラへ――。

     ◇

 今年3月、私はマニラを訪れ、ある建物を探した。手元には戦時中の地図と写真だけ。この二つを頼りに地元の人を尋ねて回った。

 「新聞社だった建物だね」。露天商の男性が道順を教えてくれた。驚いたことにアールデコ様式の優美な外観は当時とほぼ同じ。だが電線の束が垂れ下がり、うらぶれた雰囲気が漂う。

 中華街の一角に、大阪毎日新聞社が1942(昭和17)年10月に設立した「マニラ新聞社」はあった。もとは現地最大の新聞社「T・Ⅴ・T」本社。清六が勤めた戦時中は1階が営業、2階が総務、3階が編集、4階が印刷工場だった。今は雑居ビルで1階に電気部品店などが入り、2階以上は住宅になっている。

 清六は44年4月、ここの取材部長として出向し、フィリピンの土を踏んだ。当時を知る人を探すため、地域のリーダーの案内でさらに街を歩いた。だが、記憶する人は見当たらない。戦後75年、歳月の壁があちこちで立ちはだかる。

 ようやく出会ったのが元コックのロランド・アユステさん(8…

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