連載

記者・清六の戦争

太平洋戦争末期、フィリピンの洞窟でガリ版刷りの新聞が発行されていました。取材を担った伊藤清六を親族の記者が追います。

連載一覧

記者・清六の戦争

/10 報道が真実でない時、そこに生きる人たちは何を選んだのか

  • はてなブックマーク
  • メール
  • 印刷
1943年当時のマニラ新聞社内の風景
1943年当時のマニラ新聞社内の風景

 1944(昭和19)年6月、伊藤清六は順調なマニラ生活を送っていた。岩手の長兄清一に手紙で「渡比以来早や一カ月になりますが、軍の最高首脳部やラウレル大統領に会見したり、仕事の方はうまくいっています」と報告している。

 フィリピンは43年10月に独立し、日本のかいらい政権が誕生していた。だが米国の統治が長く、反日感情が強かった。経済的な困窮で治安が悪化し、日本軍による住民への暴行などもあり、各地に抗日ゲリラが組織された。

 コメ不足も深刻だった。戦争で東南アジア諸国からの輸入が困難になった上、農民は占領政策下で耕作意欲を失った。44年末にはフィリピン人の餓死が日常的になっていたという。

 マニラ新聞社内では、日本から出向した毎日新聞社員と、現地採用の住民との間で格差が生じていた。従業員数は43年7月時点で1176人。うち日本人は131人、フィリピン人978人、中国人67人。フィリピン人が食糧確保に奔走する間、日本人幹部は軍が設けた料亭やバーで毎日のように会食し、社員の歓送迎会も頻繁に開いていた。

 こうした中で生まれたのが、抗日組織や個人が発行する「ゲリラ新聞」だ。…

この記事は有料記事です。

残り1457文字(全文1943文字)

あわせて読みたい

注目の特集