特集

広島・長崎原爆

1945年8月、広島・長崎へ原爆が投下されました。体験者が高齢化するなか、継承が課題になっています。

特集一覧

拝啓 戦争の時代から

<5>戦地の従業員、疎開の息子を気遣う母の優しさ 「当たり前の生活」壊した原爆

  • ブックマーク
  • メール
  • 印刷
「一生懸命抱きしめてくれた母が、今日ここにおるわけです」。母梅子さんが76年前に書いたはがきを手に感激する三瀬清一朗さん=長崎市で2020年8月4日午後2時12分、田鍋公也撮影
「一生懸命抱きしめてくれた母が、今日ここにおるわけです」。母梅子さんが76年前に書いたはがきを手に感激する三瀬清一朗さん=長崎市で2020年8月4日午後2時12分、田鍋公也撮影

 長崎市の三瀬清一朗さん(85)は手紙を読んで涙をぬぐった。「母がしゃべりよるごた(話しているみたいだ)……」。懐かしい母の肉筆がそこにあった。

 はがきは30年以上前に亡くなった母の梅子さんがフィリピンに向けて出したものだ。消印は1944年6月。現地で米軍に接収されたとみられ、今は軍事郵便保存会(兵庫県明石市)が保管している。手紙とゆかりのある人を記者が捜し、清一朗さんにたどり着いた。

 清一朗さんが三代目を務めた三瀬商店はタオルや衣料品の卸売りを手がけ、戦前は3階建ての自宅兼店舗を構えていた。「番頭さん」と呼ばれる古株から若手の「小僧さん」まで10人以上の従業員が住み込みで働いた。母が手紙を送った本田三代吉さんもその一人だ。

 正月には商売繁盛を願ってみんなで神社に参拝し、夏には海水浴をして遊んだ。手紙には「そちらはマンゴーがとても多いそうですね。お腹をこわさぬ様頂いて下さい」とある。清一朗さんは「母にとっては預かっていた人たち。『元気にしとるか』と思って手紙を書きよったんでしょうね」とその思いを語る。

 従業員は次々と戦地に赴いた。徐々に生活も悪化し、売る物がない商店は配給所に変わった。三菱重工の兵器工場があった長崎は空襲の標的になった。

 清一朗さんは45年春、宮崎の親戚宅に疎開した。当時10歳。さみしさに耐えられず、母から届いた手紙を読んで何度も泣いた。8月1日、長崎に戻ると「よう我慢したね。よう帰ってきた」と抱きしめてくれた。

 「子供達も学校へ三人通学しております。清子が六年、清一朗が四年(中略)みんな元気ですよ」。本田さんへの手紙には自分の名前もある。あの時、抱きしめてくれた母が帰ってきたように感じた。

 8月9日。清一朗さんはオルガンの最も音が低い鍵盤をたたいて遊んでいた。「ブーン」。疎…

この記事は有料記事です。

残り616文字(全文1374文字)

【広島・長崎原爆】

時系列で見る

関連記事

あわせて読みたい

この記事の特集・連載
すべて見る

ニュース特集