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社史に人あり

数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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象印マホービン/1 大阪で「市川兄弟商会」を創業=広岩近広

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象印マホービンの創業者で、兄の市川銀三郎(左)と弟の金三郎(右)=同社提供 拡大
象印マホービンの創業者で、兄の市川銀三郎(左)と弟の金三郎(右)=同社提供

 1918(大正7)年の元旦、愛知県中島郡朝日村(現一宮市)の市川家では、故郷で迎える最後の祝い膳を家族そろって囲んだ。次男金三郎の大望を支えるべく、一家をあげて大阪へ移住することが決まっていた。

 このとき金三郎は電球(白熱灯)の加工職人だった。身につけた技術を駆使して、魔法瓶の生命といわれる中瓶を大阪で製造したいと意気込んだ。

 全国魔法瓶工業組合のホームページによると、日本に魔法瓶が初めてドイツから輸入されたのは1907(明治40)年で、1912(大正元)年には大阪で製造が始まっている。大阪は魔法瓶工業の中心地だった。

 そこへ、金三郎は参入するという。両親は息子の16歳という若さを危ぶんだ。しかし3歳上の兄銀三郎は、進取の精神に富んだ弟の熱意にほだされた。

 実は銀三郎は2年前に大阪・船場の老舗繊維問屋から、故郷の朝日村に戻っていた。老けてきた父親に「同居してほしい」と懇請されたのは、住み込み店員として商いの自信がついてきた折だった。商人向きの性分だと自任しつつも、銀三郎は長男の責任から、父親の探した大工見習の仕事に就いた。

 商都に未練を残す銀三郎は、再び大阪に目を向ける。弟のつくった製品をおれが売ろう――と決断するのに、さして時間はかからなかった。銀三郎は両親の説得を買って出る。長男の申し出に、父親はこう応じた。

 「監督がてらに大阪に行って、なにか手伝いをしようか」

 両親は前向きになってくれた。こうして家族そろって、大阪に移った。

 ところで魔法瓶といえば、保温や保冷が長時間できる容器である。

世界で初めて真空の原理を利用して、英国人科学者ジェームス・デュワーが開発した魔法瓶の原型は「デュワー瓶」と呼ばれた=象印マホービン本社1階の「まほうびん記念館」で広岩近広撮影 拡大
世界で初めて真空の原理を利用して、英国人科学者ジェームス・デュワーが開発した魔法瓶の原型は「デュワー瓶」と呼ばれた=象印マホービン本社1階の「まほうびん記念館」で広岩近広撮影

 熱は金属やガラスや水などの物質を通して、たとえばお湯が冷めるように、温度の高いほうから低いほうへと伝導する。だが、ガラス製の真空二重瓶を用いて、内瓶と外瓶の間に真空状態をつくると熱伝導を遮断できた。

 それでも防御できない熱があった。放射されて伝導する輻射(ふくしゃ)熱である。そこで内瓶と外瓶の間に、金属箔(はく)やアルミ箔を入れた。輻射熱は鏡のような反射効果を受け、結果として熱伝導を防いだ。

 金三郎が執心した魔法瓶の中瓶は、真空二重瓶にほかならず、それは内瓶と外瓶から成る。この仕掛けによって、保温や保冷の効果を生み出した。中瓶製造の真空技術は、金三郎が取り組んだ白熱電球の製造に通じている。先陣を切った中瓶製造業者も、元々は電球メーカーの技術者で知られた。

 当時、魔法瓶は高価ゆえに一般家庭に普及しておらず、中国などへの輸出が主だった。しかし金三郎は、国内でも必ず広まる、と確信していた。

 風薫る5月、愛知県の静かな農村を後にした一家は、大阪市西区九条に住居兼作業場を借りた。ささやかな町工場ながら、家族のきずなは固く、夢と希望にあふれた船出だった。

 工場の入り口には、象印マホービンの創業となる「市川兄弟(けいてい)商会」の看板を掲げた。このとき銀三郎が20歳、金三郎が17歳だった。

(敬称略。構成と引用は象印マホービンの社史による。次回は8月29日に掲載予定)

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