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社史に人あり

数百年の歴史を誇る企業があまたあります。商いの信念に支えられた企業の歴史、礎を築いた人物を中心に紹介。

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象印マホービン/2 若い熱意が職人を魅了=広岩近広

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中瓶を製造する「手吹き作業」=象印マホービン提供 拡大
中瓶を製造する「手吹き作業」=象印マホービン提供

 日本に魔法瓶が輸入されてから11年後の1918(大正7)年、市川銀三郎と金三郎の「市川兄弟(けいてい)商会」(大阪市西区)は業界の一角に入り込んだ。魔法瓶の生命といわれる中瓶製造事業に踏み出したのである。付近一帯には魔法瓶はもとより、数々のガラス製品をつくる工場が多く、大阪は「ガラス発祥の地」であった。

 当時の魔法瓶業界は、問屋と呼ばれた組み立て業者(メーカー)と中瓶製造業者、それにケース(外装)製造業者の3者体制で成り立っていた。市川兄弟商会にみられる中瓶製造業者はガラス製の真空二重瓶から成る中瓶を、ケース製造業者はプレスした鉄板にメッキや塗装を施して仕上げたケースを、それぞれが問屋に売り渡す。問屋は仕入れた中瓶とケースをもとに魔法瓶を組み上げると、その完成品に自社の商標をつけて出荷するのだった。

象印マホービンの本社に近い大阪天満宮の門前に建つ「大阪ガラス発祥之地」の石碑=大阪市北区で、広岩近広撮影 拡大
象印マホービンの本社に近い大阪天満宮の門前に建つ「大阪ガラス発祥之地」の石碑=大阪市北区で、広岩近広撮影

 市川兄弟商会は、特定の問屋と専属契約を結んだ。電球加工の職人でならした弟の金三郎が、事前に道筋をつけている。金三郎は中瓶を試作するや、大阪の問屋を訪ねた。問屋は金三郎の試作品を気に入り、援助も約束してくれた。こうして、小さいながらも中瓶製造工場を建てるまでに至った。

 市川家の兄弟は性格の違いと才能を互いに認め合って、仕事の役割を分担した。「商人気質」の銀三郎と「職人気質」の金三郎が、しっかりと手を結んだ。販売を担当した銀三郎について、社史は次のように記している。

 <銀三郎は無類の世話好き、しかも近づく人とは百年の知己のように、たちまち親しくなっていた><すぐに人の腹中に飛び込んで溶け込んでいけるような柔軟な性格の持ち主で、当時の商売人としてうってつけであった>

 一方、中瓶の製造を一手に担った金三郎は、職人と一緒になって日夜、作業に取り組んだ。中瓶を完成させるまでには、複雑な作業を要した。だが枢要では、金三郎が打ち込んできた白熱電球の製造と同じだった。魔法瓶の中瓶製造技術が、電球からヒントを得たといわれるゆえんだろう。

 まず職人は、空洞の長い竿(さお)を手にし、溶かしたガラス生地を竿の先に適量つける。空洞の竿に息を吹き込みながら、溶けたガラス生地をクルクルと回す。そうして真空状態をつくりあげた。このとき職人は、ひずみを生じさせないように慎重にガラスを回し、吐く息の調子を変えて吹かねばならない。

 高度の熟練技術を要する「手吹き作業」をへて、中瓶は完成した。だがガラス製品なので、吹き上げた中瓶が割れるのは珍しくない。ベテラン職人の瓶が割れて破片が飛び散るのを目の当たりにしたとき、銀三郎は中瓶製造の難しさと厳しさを、あらためて認識するのだった。

 ガラスを溶かす窯の熱で、作業場は常に高温に包まれた。職人の「ガラス吹き工」たちの気性も、おのずと荒々しくなった。10代の金三郎が、熟練職人を使いこなすのは容易ではない。しかし自身が職人なので、彼らの気質を知り尽くしており、だから金三郎の「ガラス吹き工」への接し方は的を射ていた。

 銀三郎の気さくな性格も相乗し、兄弟の仕事に懸ける熱意が職人に伝わった。「市川兄弟商会」の職人たちは、兄弟の若々しい熱意に引っ張られたのである。

 (敬称略。構成と引用は象印マホービンの社史による。次回は9月5日に掲載予定)

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