「奈良のシカ 口にしてしまった」 戦後の食糧難 元小学校教諭の後悔

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「奈良のシカの密猟」をテーマとした本紙奈良版の記事を手に、当時を振り返る藤田喜久さん=奈良市高畑町で2020年8月27日午前11時49分、加藤佑輔撮影
「奈良のシカの密猟」をテーマとした本紙奈良版の記事を手に、当時を振り返る藤田喜久さん=奈良市高畑町で2020年8月27日午前11時49分、加藤佑輔撮影

 古来、神の使いとして大切にされてきた国の天然記念物「奈良のシカ」。若草山を背景に、奈良公園でのんびりと草をはむ姿は「平和」の象徴そのものだが、戦中・戦後には食糧難から密猟され、一時絶滅の危機に陥ったことがある。「飢えは人を変える」。奈良市の元小学校教諭、藤田喜久(よしひさ)さん(89)が、タブーを犯して「神鹿(しんろく)」に手を出さざるを得なかった当時の状況を初めて語った。

「神鹿」の歴史は奈良時代から

 奈良のシカの歴史は奈良時代にさかのぼる。平城京を守るため創建された春日大社に、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の祭神「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」を招いたところ白いシカに乗っていたと伝わる。以降「神鹿」として保護の対象とされてきたが、戦前に公園周辺に約900頭いたとされるシカは、戦後間もなく、1割以下の79頭にまで激減した。

 藤田さんは、奈良県波多野村(現山添村)出身。小学校教諭だった父の影響を受けて教壇を目指し、1945年4月、奈良師範学校(現奈良教育大)に入学、奈良市内にあった男子寮に入った。

 戦中は月に1回、米3合の配給があったが、敗戦を境に量は激減。穀物は、大麦や大豆を含め1度に2合しかもらえなくなった。みそも手に入らず、配給された岩塩と道ばたで採ったタンポポで「岩塩汁」を…

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