終戦2日前にあった米軍による大月空襲の実態を知ってもらおうと、大月市郷土資料館(大月市猿橋町猿橋)は特別展「戦後75年大月空襲」を9月30日まで開いている。山に囲まれた地方の小都市が米艦載機の標的となった理由や空襲の実態、75年を経ても今なお市内に残る戦争の痕跡などを紹介している。【小田切敏雄】
1945年8月13日にあった大月空襲は、旧制都留高等女学校で生徒や教員ら24人が、大月駅裏にあった興亜航空の防空壕(ごう)などで旧制都留中学(現県立都留高校)の生徒10人が死亡するなど、50人を超える犠牲者が確認されている。
今回、資料館が所蔵する都留高女の学校葬儀(8月28日)での弔辞を初めて展示した。弔辞の中で当時の杉田勅男(ときお)校長は犠牲となった生徒を「諸子は本校防空要員として、又学校工場動員学徒として、その職責を果し、陛下の忠良なる赤子として、其の本分を、遺憾なく発揮して、その職に殉ぜられた」とたたえ、「私共一億は、承詔必謹、今後の新日本建設の大業に邁進(まいしん)しなければなりません」と述べた。
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