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常夏通信

その59 戦没者遺骨の戦後史(5) 常夏記者、灼熱の硫黄島で遺骨を掘る

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米軍が上陸した硫黄島(東京都小笠原村)の海岸=同島の摺鉢山で2012年7月15日、栗原俊雄撮影
米軍が上陸した硫黄島(東京都小笠原村)の海岸=同島の摺鉢山で2012年7月15日、栗原俊雄撮影

 快晴の下、太陽の強い光が顔の皮膚に食い込んでくる気がした。東京都心から1250キロ南の、硫黄島(東京都小笠原村)。2012年7月、私はこの島で戦没者遺骨の収容団に参加していた。長袖、長ズボンに手袋、ヘルメット。肌が出ているのは顔だけだ。立っているだけでつらい暑さ。

 現場は島の中央部にある自衛隊の滑走路の西側。掘り始めると、すぐにたくさんの遺骨が見つかった。見つかることは予想はしていたが、その多さは予想外だった。「待っている人がいたんだろうに……」。立派なふとものの骨を見ながら、そう思った。

 硫黄島は東西8キロ、南北4キロ。面積は約22・5キロ平方メートル。東京の品川区とほぼ同じ大きさである。第二次世界大戦末期の1945年2~3月、日本軍守備隊と上陸した米軍の間で激戦があった島だ。日本軍の戦死者はおよそ2万人。いまだ1万人分の遺骨が収容されていない。

まだ帰らない1万人分の遺骨

 私が常夏記者になったこと、つまり一年中「8月ジャーナリズム」=戦争報道をするようになったきっかけの一つが、硫黄島に渡ったことだった。日本の領土。しかも離島とはいえ、東京都の一部。かつ自衛隊が常駐している。その島で、どうしてこんなに多くの遺骨が眠ったままになっているのか。06年12月に初めて硫黄島に渡り、取材を本格的に始めて、そういう疑問を持った。

 硫黄島の戦いから生還した日本兵はおよそ1000人。私は取材を進め、このうち3人に話を聞くことができた。

 最初に会ったのは、金井啓さん。海軍の通信隊員として戦った。

 雨水以外に真水がない。武器弾薬の補給もない。食料も底をついた。絶望的な戦闘が続いた。目の前で戦友が自決した。そうした体験を話してくれた。「国が始めた戦争でたくさんの人が死んだ。国の責任で遺骨を帰してほしい」。声を震わせてそう訴えた金井さんは09年、85歳で亡くなった。

 私が2度目に渡島したのは翌10年の12月。目の前に数え切れないほど多くの遺骨が並んでいた。そこにあるには「戦死者2万人」という概数ではなく、また「英霊」という抽象的な存在でもなく、確かに生きていた人たち一人一人の亡きがらだった。「戦後70年近くたっているのに。なんでこんなに長く、この人たちの遺骨は収容されなかったのだろう。日本の戦後は、決定的に間違っていたのではないのか」。そう思った。

戦没者遺族らの遺骨収容に参加

 さらに衝撃だったのは、遺骨収容を戦没者の遺族がしていることだ。みな自分の意思で参加している。肉親を思う…

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