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オウム追放運動よりきつかった体験とは? 満蒙開拓、シベリア抑留と激動の歴史を生きた竹内精一さん

旧上九一色村でオウム真理教追放運動を率いたことで知られる竹内精一さん。満蒙開拓青少年義勇軍として満州で敗戦を迎え、シベリア抑留を経験した。オウム真理教の施設があった場所で取材に応じた=山梨県富士河口湖町で2020年7月27日、後藤由耶撮影

 大日本帝国の国策に応じて中国にあった植民地へ渡り、開拓に従事。さらには兵士となり敗戦を迎える。シベリア抑留を生き延びて帰国、山梨で戦後復興の開拓に奔走。ようやく平穏な人生が見えてきたところに、戦後最大の事件を引き起こす集団・オウム真理教との闘争が始まった――。

 激動の日本現代史を象徴する人物がいる。竹内精一さん(92)=山梨県富士河口湖町=だ。今年7月末、富士山麓(さんろく)にある自宅を訪ね、波瀾(はらん)万丈の人生を振り返ってもらった。【栗原俊雄】

 「あそこの辺りに第2サティアンがありました。そこに第5サティアン、あそこに第3サティアン」。旧上九一色村にある、自宅近くの富士ケ嶺公園。晴天であれば、目の前に富士山が大きくみえる。この日は霧が立ちこめ裾野が時おりのぞくのみ。風が強く、半袖では身震いするほどの冷え込みとなった。

 標高1000メートルに及ぶ高地。土壌は富士山の火山灰を含み、農作には適さない土地だった。竹内さんたちはここで、戦後数十年かけて開拓した。

 酪農がようやく軌道にのったと思ったころ、オウムはやってきた。当初から地元の治安を脅かす存在だった。しかし地元行政、警察さえ動かない。竹内さんは早々にオウム追放運動の先頭に立った。

 オウム信者たちに目をつけられた。身の危険を感じることも多々あった。

 命がけといえば、第二次世界大戦末期、旧満州(現中国東北部)で兵士として参加したソ連との戦闘がそうだった。敗戦後のシベリア抑留でも、たくさんの仲間が死んだ。

 しかし、そんなオウムとの格闘よりも、また抑留よりもつらかったのは、この土地の開拓事業だった。「ええ。シベリアの方がずっと楽でしたよ。働ければ食べ物も水もあった。でも、ここではそれすらなかった。人生で一番苦しかった……」

 人殺しをいとわない集団と闘うエネルギーになったのは、自分と仲間たちが文字通り命がけで切り開いてきた土地と、地域住民とのコミュニティーを守ろう、という強い気持ちだった。

 天皇を神と信じて疑わない軍国少年だった。軍人になりたかったが、色覚に異常があったため、あきらめた。大日本帝国は中国との戦争を1937年に始め、41年からはアメリカ、イギリスなどとも戦っていた。「どうせ20歳くらいまでには死ぬだろう」と、満蒙開拓青少年義勇軍に志願。43年6月に渡満した。

 大日本帝国は04~05年の日露戦争に勝った後、旧満州での権益を得た。植民地とし、邦人の移民を国策として進めていた。義勇軍は平時は農作業などの開拓に従事し、ことがあれば戦う兵士となる。帝国による大陸政策の先兵であった。「軍人になる」念願がかなったのは17歳だった45年8月。正規の徴兵年齢は19歳だったが、満州ではソ連の侵攻にそなえて「根こそぎ動員」が行われていた。

 竹内さんのような若年や、本来ならば徴兵されない中年男性まで「軍人」となったのだ。部隊に入ると「弾薬はたくさんあるけれど、銃がない」。頼りになるのは「竹やり」。ソ連軍は戦車と重武装の歩兵で攻めてくる。「これでどうしろというのか……」。軍国少年もさすがに驚いた。「人間を集めるだけ。ばかげていますよ。弾よけにもならない」

 他の資料では、徴兵の際に軍から包丁を持参するように指示されたという記録もある。竹やりにつけて、本物のやりに近いものにするためであった。第二次世界大戦から約400年前の戦国時代でもおそまつな「兵器」だっただろう。地雷を抱えてソ連軍の戦車に潜り込む特攻が、せめてもの「近代戦」だった。人命軽視以前の、人命無視。大日本帝国の戦争を象徴するようだった。

 「玉音放送」で国民が戦争終結を知らされた8月15日以降も、満州では日本の敗戦が知れ渡らず戦闘が続いた。竹内さんが属していた部隊が総攻撃を計画していた19日朝。ソ連側と停戦交渉がまとまり、武装解除となった。「助かった。家に帰ることができる」「残念だ」という気持ちが交錯し、複雑な気持ちだった。

 「日本軍は武装解除の後、各自の家庭に帰り生活する機会を与えられる」

 連合国、ソ連も参加した「ポツダム宣言」にはそうある。ところがソ連はそれを無視し、日本軍捕虜を長期間拘束した。「シベリア抑留」だ。竹内さんたちの部隊は10月、ソ連領、シベリアに入った。雪が降っていた。

 極寒と飢え、重労働。シベリア抑留の経験者の多くが、この三重苦を語り残している。

 竹内さんは違う。「食事は十分とは言えないけれど、生きていけるだけのものはあった」。寒かったが、支給される衣服で乗り切った。炭鉱労働に従事した。「鉄道敷設部隊は大変だっただろうけれど」も、自分たちはそれほどではなかった。ただ、我慢できないことがあった。

 ソ連は、日本軍の階級秩序をそのまま抑留先の作業部隊に適用させた。その結果、元将校らが下級兵士にあてがわれるべき食料を不当に「ピンハネ」したり、ソ連に課された過剰なノルマを達成するために、元兵士たちに過剰な労働を押しつけたりすることがあちこちであった。これに対する「反軍闘争」が、シベリアの各地で高まった。竹内さんの収容所では「46年の春ごろから。まず階級章を取ろうという活動だった」。

 最下級の二等兵、その上の一等兵、上等兵……。軍隊は厳格な階級社会だった。上官の命令は、下級兵士はそれが理不尽でも拒否できなかった。その階級社会の象徴が、身分を示す階級章だった。それを外そう、という運動は、大日本帝国の軍隊秩序の解体を意味していた。

 「ええ。抵抗は強かったですよ」。しかし竹内さんたちは貫いた。この階級章撤廃をはじめとする「反軍闘争」は、脱大日本帝国、民主主義を目指す「民主運動」として広まっていく。

 同じ収容所に、元教員がいた。「(ソ連は)いつかは(日本人捕虜を日本に)帰す。若いのだから勉強しないか」。マルクスの資本論、史的唯物論を学んだ。「人間は平等だ。天皇だって神ではない」。「明治以来の軍国主義教育」の呪術がとけていった。

 弱冠20歳を前に、竹内さんは選挙で作業班のリーダーに選ばれた。100人ほどを率いた。過剰なノルマで締め付けるソ連側に抗議し、ストライキを打った。捕虜の立場で、命知らずの行為だ。「ええ。軍法会議を覚悟しましたよ」。竹内さんたちの言い分の正しさがソ連側に理解され、懲罰などはなかった。体を張って仲間を守る行動が信頼を得て、アクチブ=民主運動の指導者としての地位を固めていった。

 このころ、各地のアクチブがハバロフスクに集められ、講習会が開かれていた。竹内さんも選ばれた。47年の4月から10月ごろまでの半年間。「朝から晩まで」社会主義体制や資本論、弁証法などを学んだ。極東・ナホトカに移り、1000人以上を統括する委員長に選ばれた。論理的に物事を考え、話す。多数を率いるリーダーシップ。竹内さん…

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栗原俊雄

1967年生まれ、東京都板橋区出身。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院修士課程修了(日本政治史)。96年入社。2003年から学芸部。担当は論壇、日本近現代史。著書に「戦艦大和 生還者たちの証言から」「シベリア抑留 未完の悲劇」「勲章 知られざる素顔」(いずれも岩波新書)、「特攻 戦争と日本人」(中公新書)、「シベリア抑留 最後の帰還者」(角川新書)、「戦後補償裁判」(NHK新書)、「『昭和天皇実録』と戦争」(山川出版社)など。

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