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常夏通信

その60 戦没者遺骨の戦後史(6) 硫黄島で遺骨を収容 「ごめんなさい」とつぶやきながら

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硫黄島で戦没者の遺骨を収容する現場。左から2人目が筆者(栗原俊雄)=2012年7月11日撮影
硫黄島で戦没者の遺骨を収容する現場。左から2人目が筆者(栗原俊雄)=2012年7月11日撮影

 東京都心から1250キロ南、第二次世界大戦の激戦地となった硫黄島で、遺族らの戦没者遺骨収容団に、私は参加することができた。2012年7月。収容当日は、午前6時起床。宿舎で朝食、作業の準備をすませて、バスで移動した。現場は島中央部にある自衛隊の滑走路の西側である。午前8時過ぎ、3班に分かれて、あらかじめ決められた区画を掘り始めた。最初は熊手や小さなスコップ。すぐに黄色い帯状の層が出てきた。木片か?と思ったが違った。細かくなった骨だ。土に返ろうとしているのだ。その層の近くに骨が埋まっているはずと、手で掘り進める。すると、あっという間に遺骨が見つかった。

 この現場では、別の収容団がすでに遺骨の掘り出しを進めていた。埋まっていることは分かっていたが、時間切れで掘り起こしがされていなかった場所を私たちは掘り出したのだ。そう聞いていたので、遺骨が見つかることは予想していたが、いきなり、しかも多数のそれを見て、私は動揺した。私は一年中「8月ジャーナリズム」=戦争報道をしている常夏記者を自称していて、10年には同じ現場でたくさんの遺骨を見た。遺骨を見るのには慣れているつもりだったが、自分で手に取るのは初めてだった。

大日本帝国固有の領土への初の侵攻

 第二次世界大戦末期の1945年2月19日、米軍は硫黄島に上陸した。同月21日、毎日新聞朝刊は1面でそれを報じている。見出しは「敵遂(つい)に硫黄島に上陸/舟艇百隻を連ねて/南海岸から侵入す/守備隊、邀撃(ようげき)激戦中」。米軍による攻撃の激化ぶりから、上陸は時間の問題と見られていて、日本軍はもちろん新聞も想定済みではあった。

 前年の夏、「絶対国防圏」すなわち国防のために絶対に奪われてはならないマリアナ諸島(サイパンなど)を米軍に占領されていた。1941年12月の開戦直後から翌42年にかけて米軍を駆逐したフィリピンでも、奪還作戦を進める米軍に対し、日本軍は劣勢になっていた。うそにまみれた「大本営発表」を続けた大日本帝国といえども、劣勢はもはや覆い隠しようもなかった。

 そうした中でも硫黄島を失うことは、帝国にとって格別の意味があった。

 同じ21日の毎日新聞の解説、その見出しが端的にその意味を表している。「敵の醜足本土の一角を汚す」。45年2月までに米軍の侵攻、再占領を許していたのは、たとえばサイパンのような植民地であり、フィリピンのような他国であった。ところが、硫黄島は大日本帝国固有の領土である。離島とはいえその領土を占領されたとなれば、重大な局面となる。帝国のメンツのみならず、海を隔てて帝都・東京に向き合っている戦略上の要衝を失うことは、敗戦を決定的にするものでもある。

 21日の毎日新聞の記事は、硫黄島での戦いについて「わが勇士は今や全員火の塊となって健闘を続けている、この前線将兵の尊き血潮に応えるはただ飛行機を主とする補給と本土全域にわたる物心両面の総武装の徹底化のみである」などとしている。しかし、日本軍への武器弾薬、兵員の補給や補充はほぼ不可能であり、占領されることは確実だった。

 日本軍の組織的抵抗は3月26日まで、米軍の上陸から36日間に及んだ。日本軍の戦死者はおよそ2万人。米軍の死者は6821人、戦傷者は2万1…

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