メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

社史に人あり

象印マホービン/4 弟は東京へ新たな旅立ち=広岩近広

神戸港から出航する貨客船を利用して、市川銀三郎はしばしば上海に渡った=象印マホービン提供

[PR]

 真空管を使ったラジオ放送が日本で始まったのは、1925(大正14)年3月である。この2年後、大阪の魔法瓶メーカー「市川兄弟商会」の市川金三郎は、兄の銀三郎に率直に切り出した。

 「兄さん、東京に行きたいんだ」

 金三郎は区切ってから、銀三郎を直視して、胸中を明かすのだった。

 「東京で、ラジオの真空管を製造したい」。突然のことに、銀三郎は返す言葉に窮し、兄弟の間に沈黙が流れた。銀三郎は「職人肌」の弟の胸中に思いを馳せて、深い嘆息を繰り返す。一方で金三郎は、ラジオの真空管に懸ける気持ちに迷いはなかった。

 金三郎のパイオニア精神は、ずっと一直線である。真空工業の元祖ともいえる白熱電球から魔法瓶の生命である中瓶(ガラス製の真空二重瓶)、そしてラジオの真空管と、ひたすら真空技術を追求してきた。金三郎は生粋の技術職人であった。

 銀三郎は、弟の職人魂をよくわかっており、役割を分担して助け合ってきた。ことに23年(大正12)年9月1日の関東大震災では、金融恐慌から「震災不況」に陥った。国内の需要が伸びないため銀三郎は、大阪市西区川口町の外国商館を訪ねる。魔法瓶を扱う華僑を通じて、中国市場への輸出ルートを確保したのだ。一方で金三郎は、良質な製品づくりに余念がなかった。

 苦労して業績をあげてきた兄弟だけに、できるものなら金三郎に踏みとどまってほしい。銀三郎は弟夫婦を前に、見ず知らずの東京に出る懸念を伝えた。そのうえで、こう語りかけている。

 「おれたちの魔法瓶事業も体裁が整ってきたばかりだから、東京に行くのを考え直せないか」

 金三郎は真空管の未来を語った。魔法瓶の普及に着目し、その要の中瓶を試作しては、組み立てメーカーの問屋に売り込んだ金三郎である。事前の準備は十分だろう、と銀三郎は判じた。

 金三郎は27(昭和2)年10月、銀三郎に激励されて東京に向かう。後日談になるが、ラジオは全国に普及し、金三郎の予見は当たった。さらに金三郎は医薬用レントゲンの真空事業にも進出し、「市川真空工業所」の創立にこぎつけている。

上海の街角には人力車の車夫(左端)がいて、市川銀三郎は彼らに案内を頼んで商売に励んだという=1932年3月

 一方、大阪の銀三郎は頼りの弟を送り出したものの、中瓶製造の仕事が滞ることはなかった。金三郎が育てた職工が、「市川兄弟商会」に残っており、銀三郎は彼らを督励して、輸出用の製品づくりを推し進めた。

 だが、主たる輸出国の中国情勢は、なんとも予断を許さなかった。武力を背景にした日本の中国進攻は続き、28(昭和3)年6月に関東軍が張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件を企てる。張作霖は満州(現中国東北部)の軍閥で、関東軍の支援を受けていた。しかし関東軍は、満州を支配するうえで、張を危険人物とみなして爆殺に及んだ。

 関東軍の暴走は、その後もつづき、日中関係は悪化の一途をたどる。銀三郎は上海に渡るたびに、日貨(日本製品)排斥運動の激しさに直面するのだった。

 (敬称略。構成と引用は象印マホービンの社史による。次回は9月19日に掲載予定)

おすすめ記事
広告
毎日新聞のアカウント
ピックアップ
話題の記事

アクセスランキング

毎時01分更新

  1. 真面目なラブホテル苦境 給付金もGoToも対象外 「推奨されていい」はずなのに

  2. ORICON NEWS BUMP OF CHICKEN・直井由文、不倫報道を謝罪「心よりお詫び申し上げます」[コメント全文]

  3. 案里被告から電話、30万円「あれ、なかったことで」 広島県議証言 東京地裁

  4. 「僕が駅を利用しない方がもうかるのか」 疎外感訴える障害者 無人駅巡りJR九州提訴へ

  5. 大坂なおみ選手起用「かわいさ」狙った広告に集まった批判 その背景は

編集部のオススメ記事

のマークについて

今週のおすすめ
毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです