祭りの後、夢の跡 消えゆく昭和-岐阜・問屋町 諏訪哲史さん

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問屋町商店街
問屋町商店街

 問屋町と書いて「といやまち」。戦後、旧国鉄岐阜駅北に隙間(すきま)なく張り巡らされたアーケード街だ。かつてひしめきあった衣料問屋の店々も今は大半がシャッターを閉め、昼も夜も、そこでは不思議な無人の迷路が訪問者を言葉少なにする。

 特に目を引くのは問屋町中央ビルだ。一階に多くの店舗、上階に事務所の入る巨大集合ビルの威容は往時アーケード側からのみうかがい得たが、駅側の再開発以降、この軍艦島のようなビルの背面が、より露(あら)わに一望されるようになった。昭和の建築と雨風の腐食作用とが長い年月をかけ造形したこの崇高な奇観も大方残りわずかの寿命だろう。

 駅南西には、かつて日本有数を誇った歓楽街「金津園」が広がっていたが、これも新道路の敷設で昭和期の陰影は薄れ、国鉄の車窓から子供心にアラビアンナイトのごとく見えた不夜城の電飾群も数を減らした。

 22歳の春、名鉄に入社した僕が最初に配属された研修現場が新岐阜駅で、そこにいた退職間近の多くの年配駅員・乗務員に、岐阜という街の大人の歩き方を教わった。当時の新岐阜、現名鉄岐阜駅は、揖斐(いび)や谷汲(たにぐみ)、関や美濃町までゆく広大な路線の主幹駅であり、市内には風情ある路面電車の軌道も健在だった。乗務員らは乗務交代すると、鉄製のランプのような筒型の重い運賃箱を後生大事に手に提げ、当直室へ帰ってきた。

 彼らは寡黙だが、水を向ければ昔日の逸話を聞かせてくれた。往時を色濃く思わせる若き日の彼らの遊蕩(ゆうとう)話に感化され、僕も非番の白昼、方々の街をさまよった。中でも僕が好きな地区が柳ケ瀬や問屋町だった。柳ケ瀬の話は次回書こう。

 も…

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